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 あの夜以来、なんの連絡もない。また来る、とは言っていなかったが、教えられることがあれば連絡すると言ってくれていた。  小さなことをネチネチ気にして必死に世間に認められようと長い物に巻かれている男。  そう言った意味では、けして男らしいとは言えないが、男臭い男だ。  幼い頃、三白眼の男に怖い思い出がある。だから三白眼は本当に嫌いだ。 けれど、由汰の目をガラス玉のようだと褒めたり、西洋の市松人形や蝋人形のようだと評したり、別れた夫の面影を重ねて罵ったり、由汰を特別に作られた物のように奇異な目で見る人たちばかりの中で、織部の目は最初からまっすぐに由汰の本質を見ていたように思う。 作り物などではなくただの人間としての。 かつて自分の経験値をあげようと通ったその手のBarでも、結局由汰を由汰として見てくれる男はいなかった。  遠巻きに鑑賞するか、近づいてきても由汰の中に違うものを見出そうとする男たちばかりに嫌気がさして、結局通い続けたBarからも一年と経たず遠のいた。 そんなふうに見られるのにも慣れてしまったから、織部の態度は新鮮だったかもしれない。 普通の人たちを前にしているのと変わらない、事件なんてなければ道端ですれ違っても目もくれない。  美人じゃなくても好みの女がいれば振り向くことくらいするかもしれないが、そうでなければただの不特定多数の一人であって、目が赤だろうが金だろうが興味がなければ彼の中ではただの人だ。 「…………」  夜中の二時に、アドレナリンマックスの頭の中で整理していて気づく。  そうか、自然体だ。  織部が由汰に対する態度も、由汰の織部に対するそれも。  認めたくないが、だから気になる。悔しいけれど、どうしようもなく惹かれているようだ。  会ってまだ二回目の、大嫌いな三白眼を持ったホモフォビアの男臭い男に。  由汰は感慨深げに頭の後ろで腕を組むと、同じ姿勢で凝り固まった背筋を伸ばすように天井を仰いだ。 「スキスキ催眠術ね」  不意に口にしたにわか言葉に、想像を巡らせようとしたが無理だった。  遅れてじわじわと笑いが込み上げてくる。  三十一歳が口にするには、いささかはばかられる言葉だったなと。     意識がふわふわとしていて、身体は重く、指の先まで脱力して動かすことができない。 目を閉じているから、それ以外は定かではないが、どうやら椅子に座らされているようだった。  耳を澄ましてみたけれど、何も聴こえない。無音だ。無音ではあったが、この嫌な臭いはなんなのか。  鼻腔をツンとつくような酸っぱくて生臭い異臭。  ――なぜだろう。遠い昔に嗅いだことがあるのに、思い出せない。  思い出そうとすればするほど、異臭は濃度を増して、強烈な何かが腐ったドブのような汚臭へと変わっていく。  このままでは、吐いてしまう。  耐えかねて、由汰は重い瞼を開けた。  眩しい。部屋の中。どこの? 誰の?   朦朧とする頭で、目の前にあるモノがなんなのか、必死に思考を巡らせた。 近すぎて焦点が合わない。 どうにか目を細めて焦点を合わそうと凝らす。 ついにカチッと合った時には、それがギョロッと動く大きな二つの三白眼だと分かった。  背筋をせり上がってくる恐怖。  由汰は攣ったような悲鳴をあげた――つもりだった。  自分の口許は一ミリも動いていない。  それよりも、口角は上がって穏やかな笑みさえ浮かべている。気持ちとは裏腹に、心と体が分離してしまったようなおかしな感覚だった。  これは、十ニ歳の夏、自ら男に付いて行った蒸し暑い雨の日の出来事だ。  思い出そうにも覚えていることなどほとんどない。爬虫類のような三白眼と、汚臭にまみれた恐怖だけが、脳裏に強く刻み込まれただけの恐ろしい記憶だ。  男の顔はあまりにも近すぎて、焦点がうまく合わない由汰の目には、目の前にいる男の顔の全体像すら捉えることができなかった。  若い男、歳は定かじゃない。  眼球を上下させて辛うじて見て取れるのは、男の目と口だけ。  男は、愛おしそうに由汰を眺めながら、由汰同様に穏やかな笑みを浮かべる。  微笑まれれば微笑まれるほど、由汰の心は凍るように震えあがっていく。  微笑みとはまったく相いれない恐ろしい何かが、常軌を逸した何かがその場にあったから。  断末魔のような悲鳴をあげて、今すぐにでもその場から這ってでも逃げ出したいと思うほどの、優しい微笑みにはそぐわない、おぞましい何かがあったからだ。  なのに、視界がぼやけて、それがなんなのか見えなかった。  いや、正確には思い出せなかった。  自分は先ほどからずっと見たくもない夢を見ている。  こんな夢からは早く目覚めてしまいたいのに。必死に抗おうと神経を集中しても夢から抜け出すことができない。  男の口が二言三言、由汰に何かを告げる。  何を言っていたのか思い出せないから、その言葉が夢の中の由汰の耳に届くことはないのだけれど。  頭の中に、何かを刻み込まれたような気分だった。  次の瞬間、由汰は叫んでいた。 夢に捕らわれているまま、実際に布団の上で自分が叫んだのだと判る。 だが、夢は容易に由汰を解放してはくれない。  場面がガラリと変わった。  薄暗い朝靄がたち込める中、ゴゴゴォーッとけたたましい爆音と共に茫然と立つ由汰の目の前を勢いよく電車が通り過ぎていく。  突然ザーっと降り始めた雨の中、傘もささずに何かに憑りつかれたように立ちすくんでいた。  俯いた前髪から雫が滴り落ちるほどびしょ濡れになりながら行かなければ、と何故だかそう強く思っている。  恐怖を感じながらも、行かなければと半ば何かに引き寄せられるように、無意識のうちに足を踏み出した。  ――ピチャッ――…。  不意に、背後で何かが水に撥ねるような音がして、由汰は肩越しに虚ろな顔で振り返る。  視線の先に捉えたのは、アスファルトを叩きつけながら降る強い雨の中を転がるように広がった反物だった。  仄暗かった世界が、途端に極彩色で彩られる。  色とりどりの牡丹と、目を瞠るほどの、鮮やかで煌びやかな金銀の尾をたなびかせた一羽の堂々たる孔雀の艶姿をあしらった、由汰の心を現に引き戻した楽土だった。  一瞬にしてサーッと頭の中の霧が晴れた気がした。  反物は雨に濡れて、いっそその彩りを色濃く鮮やかなものにした。  視線をあげると、初老の男が傘片手に落とした反物を水たまりからすくいあげようとしているところだった。 『お前さんみたいに濡れたままでいればよかったかな。傘なんざさそうなんて欲をだしたもんだから、大事な反物を落としちまった』  そんな大事なものなら肩を落として落ち込むところのはずなのに、男はその失態をどこかおかしそうに小さく笑って、濡れたままの反物を紙袋の中に押し入れた。 『けど、お若いの、そんなに濡れて風邪なんざひきなさんなよ』  言い置いて、踵を返した男に半ば反射的に『待って!』と叫んでいた。  不思議そうにゆっくりと振り返った男に、 『お願い――僕を連れて行ってください』  駆け寄ると同時に、手の中の切符を濡れるアスファルトの上になんの躊躇いもなく手放していた。男の視線が一瞬その落ちた切符に向けられた気がした。  さっきまで自分が何故この場にいてどこへ行こうとしていたのか、今ではもう思い出せない。  長い眠りから目が覚めた気分だった。身も心も軽くなって、恐ろしい何かから解放された気分だった。 『家に帰らなくてもいいのかい? お母さんが心配するだろうよ』 『心配なんてしないよ。家には帰りたくないんだ。おじさん、お願い僕を一緒に連れて行って』  気が付けば頼りない男の細い腕に縋りついていた。 『みちさんだ』 『なに』 『おじさんじゃなくて、みちさんだ』  そう言って笑うと、三千雄の顔は頭の中からテレビの電源を切ったように呆気ないほどプチッと消えた。  けだるい目を開けると、最初に飛び込んできたのは枕元に置かれた古い見慣れた目覚まし時計だった。  ピピッピピッピピッ――…。  三千雄が長く使っていたものだから、デジタルなんてハイテクなものではないけれど、ご老体はまだまだ現役で、秒針は十時三十一分をしっかりと指示している。  シーツがしわくちゃになるほど強く握りしめながら、うつ伏せに眠っていた由汰は、自分が酷く汗でびしょびしょになっていることに気がついた。  もう一度、時計を見る。  ――十時三十一分。 「……う、嘘」  喉の奥に何か詰まったかのような酷い掠れ声だ。  こんな遅くまで一度も起きずに寝続けてしまったなんて、仕事が休みの日だったとしても今までにないことだった。  セットしておいた七時からずっと鳴り続けているであろう目覚ましのアラームを、消そうとして持ち上げようとした腕がまるで上がらない。  思わず半笑いしそうになるほど上がらなかった。  あれ? と思いながら今度は起き上がろうとしてとっさに起き上がることができない。  その瞬間、由汰は自分のおかれた状況をようやく理解した。  サーッと全身から血の気が引いて行く。  冗談じゃなく孤独死一歩手前まできていたのだと。それも昌子の来ない休日の日に。 尋常じゃない体の重さはまさに警鐘だ。 「…………」  一人で切り盛りしなければならない忙しない土曜日の昨日。確か、午後から体調を崩して、それからどうだっただろう。

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