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 夜は夕飯もそこそこに月末処理を気力でやり終えてから、ふらつく足でシャワーを浴びてそのまま倒れ込むように布団にはいったんだったか。  シャワーの辺りからどうも記憶が曖昧だ。風呂上りに水は? いや、きっと飲んだ。  寝る前の血糖値の測定は? 怠ったかもしれない。  うつ伏せのまま、目先の指先を動かしてみる。難なくグーパーもクリアして少し安堵した。  指の先で、目覚まし時計の手前で、携帯電話がブーブーと震えている。  誰かからだろう。はたして何度目の電話だろうか。  携帯に手を伸ばそうと、どうにか渾身の力でもって腕を動かした。鉛なんてものではなかったが、どうやら頑張ればまだ体は動くらしい。取り敢えずは最悪な寝覚めだったとしてもひとまずの朗報だ。  けれど、取り上げた携帯のディスプレイを見て、憂鬱な目覚めがさらに憂鬱なものとなる。  昌子からの電話だった。この状況で朝っぱらからまさかまた見合い話ではなかろうか、と――十時半が朝っぱらと呼べるものであるならの話だが。  今この状態で、昌子の相手は目の前に万札をいくら積まれようとも御免被りたかった。 電話が切れて万が一にも戸口を叩く者があっても、全力で居留守を使うだろう。  手の中の携帯がバイブを止めて沈黙する。  恐る恐る覗いてみると、昌子からの着信が今朝から三度あったことを知った。  本当に家まで来やしないかと心配になってきたが、それを気にしている余裕も猶予も今の由汰にはない。  どうにか腕を突っ張って鉛を全身に被ったように重い体を押し上げると、そのまま後ろに尻もちをつくようにへたり込んだ。  柱に寄り掛かって一息つく。  視界が狭いと思えば前髪だった。  前髪が汗で額にべったりとくっついていて、由汰の視界を奪っている。気持ちが悪かった。それを指で払いのけるには今は余力が惜しい。  急を要するのは測定器だ。  近くに血糖値の測定器が転がっていないかを目だけで探す。  幸いにもそれは枕の下に埋もれるようにあった。  おそらく昨夜、寝る前に測ろうとして準備したものの、僅差で訪れた睡魔の勝利であえなく放置されたものと推測される。  血糖値を測って、まず棺桶に片方の爪先くらいは突っ込んだかもしれないと言う事実だけは分かった。今すぐにでも糖分を摂取する必要があるほどには。  ゴンゴン、ゴンゴン、と由汰は柱に後頭部を打ち付つけて、どうにか気持ちを落ち着かせようとした。  だが、何度か打ち付けて忌々しげに目をつむる。  このどうしようもなく込み上げてくる苛立ちをどこに向けたらいい。  うまくいかないもどかしさも、腹のそこに燻るような恐怖も、不安でたまらず押し潰されそうになる胸も。  潰れるほど握りしめていた測定器を思わず投げつけた。  間髪入れず携帯電話も畳に投げつけると、額にくっついた前髪を指先で荒く掻きむしった。  前髪を鷲掴んだまま奥歯が折れそうなほど強く噛みしめて、全身に粟立った恐怖をやり過ごそうとじっと堪える。  こんな日は自分が独りだということが心底嫌になる。怖くてたまらない。  心臓が今更ながらバクバクと騒ぎだした。  爪先とは言え、あと数十分も眠っていたら片足は完全に棺桶の中だった。  誰かに側にいて欲しいと思わずにはいられない。ただ、それが誰でもいいわけじゃないと言うのが難しいところだったが。  今朝久しぶりに見た夢を思う。できることなら、三千雄に傍にいて欲しかった。  三千雄が死んで二年。無我夢中で店を切り盛りしてきたものだから、振り返ることなどなかったものの、病気になって十か月、近ごろ気負ってきた気持ちが脆くなり始めてきているのを感じる。  項垂れて深い息を吐いた。  嫌味なほど良い天気の日曜日、こんな日など織部は何をしているのだろうか。やはり仕事だろうか。  馬鹿みたいにそんなことを考えてしまう。  三千雄がいないなら、織部がいい。  なぜだか、埒も無くそんなことを思った。  彼にたとえ不毛だなんだと罵られても、甲斐甲斐し過ぎる口うるさい昌子や、知った顔で人を病人扱いし過ぎる兼子といるよりかは、はるかに気が楽な気がした。  結局、織部からは水曜の夜以来なんの音沙汰もない。自分は何を待ちわびているのか。  とにかく、調査報告を知りたいというより今は織部の声がなんだか無性に聞きたかった。  連絡がないなら自分からしてみるというのは――いや、と考えて項垂れた。  いやいや待て、と天井を仰いで力なく首を振った。  今はそんなことを考えている場合じゃなかった。  だるい体を引きずるように動かして重い腕をどうにか伸ばせば、控えめにずっと鳴り続けていた目覚ましのアラームをようやく止める。  静まり返った部屋が、一瞬昌子でもいいから傍にいて欲しいと思ってしまうほど、妙に心細く感じたのはこの際無視することにした。  まずは低血糖から抜け出すことを優先しなければ。  今朝はインスリンを打たずに先におにぎりと加えてポカリスウェットとゼリーも食べた。眩暈も震えも酷く、食欲はまるでなかったが、無理やりにでも口にしなければ早くて数十分、遅くとも数時間後には確実にあの世行きだ。  ここまで体調が崩れるのも珍しい、というより、初めてのことだった。  近頃三十度を超える夏の猛暑に血糖値が左右されてうまくコントロールができなくなってきている。  冬の寒さよりも夏の暑さのほうが由汰にとっては影響が強いようだということが分かってきた。  幼稚園児様々な朝食を――十一時手前の食事を朝食と呼べばだが――を終えた後、汗で湿ったシーツを洗濯機に突っ込み、汗まみれの体をシャワーで洗い流したら少し元気になった。  今日はこれから銀座高島屋で催されている加賀友禅の花嫁暖簾展に出かける予定だ。  体調の悪い日はなるべく出歩かない方がいいのだが、展示会の最終日でもあったし、三千雄の友禅が加賀友禅から学んだものだと言うこともあって、その原点的なものをどうしても見てみたかった。  風呂上りにボクサーパンツ一枚のまま髪の毛を直して髭を剃ると服を着る。ヘンリーネックの麻シャツの袖を肘まで捲って、お決まりの細目のジーパンに足を突っ込んで身支度を済ませると、居間で歯を磨きながらリモコンでテレビをつけた。  昼のニュースを背中で聞き流しながら台所で口をゆすいでいると、なんだ? なんだなんだ? と言う気持ちが沸きあがってくる。  今まさに、テレビの中でアナウンサーが読み上げるニュースに、由汰は蛇口をキュッと止めながらピタリと動きを止めた。  頭がそれを理解した瞬間、勢いよくバッと振りかえってテレビに釘付けになる。  拭き損ねた口端からだらしなく水が滴り落ちるのも構わないほどに。  心臓が激しく脈を打った。  真っ赤な口紅をべったりと塗りたぐった大きなパールのピアスをした中年の女性アナウンサーが、報道フロアーからニュースを伝えている。  もう一回、と念じながら由汰はテレビに食い入る。 『繰り返します。今朝、警視庁から発表のあった都内のインターナショナルスクールに通う中学三年生の堀北蒼流(ほりきたそうる)くん十五歳と、光音(ライト)・エメリーくん十五歳が行方不明になっている事件で、先週火曜日未明に、堀北蒼流くんの遺体が北区荒川近辺の公園で発見されていたことが、警視庁からの発表で明らかになりました』  これは一体なんの冗談だ。  由汰は目を凝らしてゴクリと唾を飲み込んだ。  ワイプで映し出された証明写真は見間違いようがない。 『当初、行方不明になったとされる先々週金曜日から二人は自宅に帰っておらず、堀北蒼流くんの遺体発見を機に、二人はなんらかの事件に巻き込まれたのものとされています。なお、光音・エメリーくんの行方は依然行方不明のままとなっており、その安否が危ぶまれています。今後、警察は情報公開を行い有力な目撃情報などないか調査する方針で――』  あの写真も、こんなキラキラネームも忘れるわけがない。  死んだ? 遺体で発見されたって? それも先週の火曜日の未明に――。  失踪どころかこれは殺人事件じゃないか。  由汰は掌の甲で濡れた顎を拭いながら唇を指で擦った。  そのままキッチンに寄り掛かってニュースを眺め見る。  周辺をぼかした状態で『(こみち)』の正面入り口が映し出されていた。最後に目撃されたとされる場所として。  いつ撮りに来たものなのか。今朝方か。棺桶に足を突っ込んでいる最中だったので気づかなかった。きっと朝のニュースでも流れたはずだ。であれば、おそらく昌子からの電話もこの件に間違いない。  由汰は台所を離れると携帯電話を探した。ニュースはしっかり耳で聴きながら。  先週の火曜日未明と言ったか。確か織部たちが『径』に来たのがその日の夜で、初動捜査が遅れた理由を失踪届が出されたのがその日の朝だったからと長谷川が言っていた。  ――違う。遺体が発見されたのがその日の朝だったのだ。  織部もこの家に彼らがいないことははなから知っていて、由汰をふっかけたのだ。  翌日の現場検証は、単に本当に彼らがこの『径』からどうやって出て行ったかを調べるものだったに違いない。出て行った形跡が発見できなければ、この家の中を隅々まで調査――いや家宅捜査するつもりだったのだろう。  長谷川がなんと言おうと確実に由汰は容疑者だったはずだ。しかも殺人の。  幸いにも家宅捜索が行われる気配がないところを見ると、彼らが裏庭から出て行ったことは十中八九間違いないのだろう。  捜査の都合上、由汰に言えなかったのは分 かるが、できれば是非教えて欲しかった。  おかげで中二階に誰かが潜んでいるのではないかと、さんざん気を揉ませられたのだ。  NKビルに防犯カメラまで見に行ったりして。

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