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 今朝、起き抜けに投げ飛ばしたままの携帯電話を寝室で見つけると、迷わず織部に電話をかける。  できれば、きちんと織部の口から説明が聞きたい。  けれど、ワンコール、ツーコールとコール音が虚しく鳴り響く中、留守番サービスに切り替わってしまった。  少しがっかりしながらもそのまま電話を切る。  だが、切ったそばからすぐに携帯電話が震えだす。  慌てて通話ボタンを押して「織部さん!」と思わず呼びかけそうになって寸前で噤んだ。 『由汰くん?! 生きているのね?!』  通話の相手は慌てた声の昌子だった。  なんてことだ。しっかり確認もせずに出てしまったものだから、てっきり直ぐに折り返してきた織部からだと思ってしまった。  由汰は、勢いよく吐きかけた言葉を喉に詰まらせた。  指で眉間を摘みながら失態を嘆く。 「やあ、おはよう昌子さん」  喉を詰まらせた割には、なかなかに落ち着いた声が出せた。上出来だ。 『おはようじゃないわよ。どうして電話にでないの? 何度も電話したのよ。例の事件のニュースはもう見た?』 「ああ、今見たよ。店が映ってて驚いた」 『店なんてどうでもいいのよ。それより、家の前に報道陣とかいないの? 今日は外出は控えた方がいいわ。なんなら家に来てもいいのよ』  まさか、冗談。  昌子の家に行くくらいなら報道陣に追いかけ回されるほうがずっとましだ。  とは思いつつも、気になって店に降りると大戸口から外の様子を確認した。 「今はもう誰もいないみたいだよ。そんなに心配することないって。別にここが殺人現場ってわけじゃないんだからさ」 『そうだけど……』 「それに、今日は銀座まで友禅展を見に行くんだ。最終日だし見逃したら最後。外出しないでいるなんてできないよ」  そう言うと、昌子が電話口でしばらく黙り込んだ。  聞こえるか聞こえないかの小さな溜息が聞こえた。 『今朝、店の方にも電話したのよ』  目覚まし時計の可愛いアラームとは比べものにならないほどけたたましいデジタル音をたてて鳴る店の電話に?  由汰は目を見開いて愕然とした。  それすら気づかず目を覚まさなかった事実に、再び全身が凍り付きそうになる。 『もしかして具合でも悪いんじゃないの?』  本当に心配しているからこその、いつもよりも深刻さを帯びた昌子の、トーンを押さえた声に由汰は唇を噛んだ。 「いや、風呂に入ってて気づかなかったんだと思うよ。汗が酷くて、ほらその熱帯夜だったでしょ?」  もしかしたら動揺が僅かに伝わってしまったかもしれないとドギマギしていると、昌子はそれきり追及はしてこなかった。と、言うより、察しながらも由汰のために口をつぐんでくれたと言ったほうがいいかもしれなかった。 『ならいいのだけど。もう少しで店まで行くところだったわ。煩わしいと思っても電話には出てちょうだいね。面倒臭くても折り返しちょうだい』  分かったと応じながら、酷く罪悪感に苛まれた。  昌子の気遣いが少しだけ胸に染み入る。  必死になって連絡を取ろうとしてくれるのは、今はきっと昌子だけだろう。  その心配がたとえ杞憂で終わったとしても、その杞憂を心から喜んでくれるのもまた今はきっと昌子だけだ。  何かあれば連絡ちょうだいよ、と再三にわたって言う昌子に約束すると応じて電話を切った。    少し休もうとカフェコーナーに来た由汰は目のまえの光景に目を瞠った。  こんな偶然なんてあるのかと。  展示場のある高島屋八階。エスカレーターを通り過ぎたところに設置されたテーブル席とソファーがあるだけの簡易的なカフェコーナー。  四歳くらいの小さな女の子を真ん中に、それを挟むように両サイドに座る男女の姿に釘付けになる。 「パパ」  そう呼ぶ女の子に、眦を下げて優しく微笑みかけるのはあの織部だ。  今朝、由汰は昌子の電話のあとも何度か織部に電話を掛けていた。  けれど、電話は留守番電話サービスに切り替わるばかりで織部が応答することはなかった。  織部に電話するのを諦めて、洗濯したシーツやパジャマを庭に干して家を出たのが十三時ごろ。一時間半近くかけてようやく高島屋に辿り着いたのが十分ほど前だった。  三十二度の猛暑と、乗り継いだ電車内の冷房にあてられて、既にふらふらだった由汰は、トイレに駆け込んで低血糖なのを確認すると、ここ最近低血糖になりやすいことを考慮して念のためブドウ糖のパウチを二つ捕食した。  洗面台に両手をついて鏡の中に映る酷い顔色の自分にうんざりしながら、展示場のある八階へと来た。  けれど、低血糖は思いのほかしつこく、ブドウ糖が効いてくるまでどうやら休養が必要と判断し、カフェコーナーへと来たのだが。  まさか、365日分の一の、この広い東京で、こんな場面に遭遇するとは思わなかった。  刑事の顔なんてどこにもない、子煩悩な笑顔を浮かべた織部は半袖の開襟シャツにスラックス、長い足を組んでテーブルに頬杖をつきながら娘とおぼしき女の子と楽しそうに話し込んでいる。  ある特定の人だけが向けてもらうことのできる穏やかで愛情深いその表情に、どうしてか由汰の胸が鈍く痛んだ。  娘を挟んで逆サイドには母親とおぼしき女性が――つまりは織部の妻だと思われる女性が座っていた。  それも華奢で清楚で良い身なりをした花も恥じらうほど綺麗な女性だった。この上なく幸せそうな笑顔で二人のやりとりを眺めている。  男が必死に長いものに巻かれて手に入れたまさに理想の形がこれなのだと思った。  何度もかけた電話にでなかったのはこのためか。  まさかこんなところで織部と遭遇するなんて。それも、かなり想定外の状況で。とんだ不意打ちだった。  どうやら自分は動揺しているらしい。  座ろうとして斜め掛けのワンショルダーボディバッグをおろそうと掴んだ手が心なしか汗ばんでいる。  聞きたいことはあったけど、こんな状況で顔を合わせるのはごめんだ。  由汰はゆっくりと後ずさった。  幸いにも、向うはまだ由汰に気づいていない。  話し声はほとんど聞こえないが、織部はこの上なく家族の団欒を楽しんでいるように見えた。  天気の良い日曜日の昼下がり。  ああ、そうだ。これが家族の本来あるべき姿だ。由汰自身、一度も味わうことのなかった光景だ。小さい頃、まさにあの幼女くらいのころ、こう言った光景を見て焦がれなかったと言えば嘘になるし、実際羨ましかった。  どうして織部が結婚していないと思えたのだろう。  あれほどまでに世間体を気にする男に、どうして妻と子供がいないなんて思ったのだろう。  せめて心の準備くらいはしておきたかった。次からは人にあったら一番に既婚を疑うべきだ。  彼の定義に大きく外れる自分が、ここに居てはいけないような気がした。無意識に動揺が増す。  感づかれてしまったら最後、脱兎のごとく逃げ出すなどといった醜態を晒しかねない。早鐘を打ち始める胸を拳で押さえつけながら、とにかく一歩また一歩と後ろに下がった。  少し距離ができてようやく「今だっ」と体を翻そうとしたその時、 「――南くんっ!」  なんてことだ、悪いことは重なることをすっかり忘れていた。  背後から大きな声で呼びかけられて思わず舌打ちが出る。もちろん、由汰以外には聞こえていなかったが。  落胆の色が顔にまざまざと滲んでいたに違いない。  項垂れたい気持ちを拭うように、天井を仰いでからどうにか平常心を顔に取り戻して、ゆっくりと背後を振り返った。  手を振りながら駆け寄ってくる兼子を、通路端に観賞用として置かれた白磁の壺で殴りつけたい衝動を必死に抑えながら。 「やっぱりそうだ! この時間帯なら君に会えるかもしれないって踏んでいたんけど、どうやら今日の私はついていたみたいだね」  などとのたまって微笑むしらじらしい兼子の笑顔に、小さく笑みを返しながら視線を横に向けた。  ほらね、お見事。  案の定、織部が由汰をじっと見ている。外敵を見つけたような獣のような形相で、酷く険しい辛辣な目をして。  最悪だ。いや、最高? おかげで低血糖からも抜け出せて朦朧としていた頭も今のショック療法で完全に復活だ。  兼子の出現でこの場を無言で去ろうとした努力も無駄に終わり、今朝のニュースのことも重なって再びイライラが込み上げてくる。  全ては病気のせいだと思えたら楽なのに。椅子になんて座りたいなどと思わず、まっすぐ展示場に足を向けていれば避けられたケース。

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