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このまま素知らぬ顔でやり過ごしてしまおうかと思ったが、そうもいかなかった。
妻の顔が、織部の視線に釣られるようにして由汰を見たから。
不思議そうな表情を浮かべたかと思えば、次にはそれが困惑とも剣呑ともつかぬ表情に変わる。
無視して目を逸らすわけにわけにはいかなくなった。
妻の目を見て、それから織部の目をみて客向けの控えめなスマイルと共に軽く会釈だけした。
織部が会釈をしたかは分らない。すぐに兼子の方に顔を戻してしまったから。
これで充分。あまりあるくらいだ。あとの説明は織部が妻にするだろう。
「知り合いかい?」
「ええ、まあ」
兼子を促しながら短く答える。詳しく言う気はもとよりない。
「顔色が今日も一段と悪いようだけど、あそこで少し休もうとしていたんじゃないのかい?」
エスカレーターの横を通り過ぎながら、親指で過ぎ去った背後のカフェコーナーを兼子が指す。
いつもの決まり文句に大きな溜息がでそうなのを必死に堪えて、力なく首を振ってみせた。
「ブドウ糖をここに到着した時に口にしたので、じきによくなると思いますよ」
現に、既に体のだるさと眩暈はとれていた。
「兼子さんは今?」
「ああ、今さっきね。私はあのカフェコーナーで少し休もうと思ってた」
由汰は、はっとして足を止めた。
「そうだったんですか? すみません。言ってくれれば……」
「いんだよ。君に会えたから」
気分を害した風もなく、相変わらず涼しげな目許を細めながら紳士的な態度で隣を歩く。
「そう言えば、もうニュースは見たかい?」
「え? ……ええ。例の少年たちの事件ですよね」
思いの外、さっきの団欒風景がショックで、頭が上手く切り替えられないでいた。
どこか上の空のまま応える。
「ニュースではあまり詳細状況について語られていなかったけど、何か聞いてる?」
ああ、聞こうとした。何度も電話をして確認しようとしたけど、織部は出なかった。
無言で歩くそんな由汰を気遣うように優しい声で尋ねてくる。
「あれって、さっきの男性のことだけど刑事さんだろう?」
「え?」
驚いて顔を上げると、兼子は前を向いたまま口角を軽く上げた。
「実を言うとね、彼、私のところにも聞き込みに来てるんだよ」
「そうなんですか?」
近所であるし、あの界隈を聞き込みに回っていたと考えれば、兼子の店にも行っていたとしてもなんら不思議なことではなかった。
「少々強面ではあるけど見目はそう悪くない。三白眼の苦み走った顔は、女からの誘いも引く手あまただろうね。いい男だよ。けど妻子持ちだったとは――君は、彼みたいな男がタイプなのかい?」
さらっと問われて内心で心臓が跳ね上がったのは、顔にこそ出さなかったもののおそらく観察力の高い兼子には見抜かれたに違いない。
そうかと言って、馬鹿正直にそれにイエスと答えるほど由汰もお人よしではなかった。
素知らぬ顔でやり過ごす。
「三白眼は僕の範疇外なんですよ。どうも昔から苦手でね、好きになれない」
今までは、とまでは口にしなかった。
「ほう」
正面を見据えながらそう応える兼子の声音が幾分低く感じられた。
眉を顰める。何か気に障るようなことでも言ってしまっただろうか。
そのまま黙り込んでしまった兼子を見やりながら、気まずい空気に視線を落とした。
時々、兼子が何を考えているのか分らなくなる。そわそわヒヤヒヤさせられて、この男といると気が休まらなかった。
内心でどっと疲労感を覚えながら息をついた。
この後、兼子と共に友禅展を見て回ると考えたら気が重い。
声を掛けられた時、既に見て回ったのだと嘘でもついて外で時間を潰してからもう一度出直して来ればよかった。友禅展は夜の八時までやっているのだから。
だがしかし、全ては後の祭りだ。
展示場に入るまでの間、兼子はずっと無言だったので、由汰もあえて何か取り繕って話をふることはしなかった。
思った通り加賀友禅は素晴らしいものだった。
沈み込んでいた気持ちがふわっと浮上して心が洗われていく。疲れていた体と気持ちが癒されていく気がした。
無理をしてでも来て良かった。予期せぬ男たちに遭遇したことを合わせ見ても。
丈幅一メートル強ほどの華やかな暖簾が、所狭しと幾つも壁に飾られている。
溢れんばかりの花々が飾り盛られた花車や、兼六園を背景に描かれた豪奢な扇、その他にも山水や松など多彩な色で彩られて、どれも花嫁がくぐるに相応しい作品ばかりだった。
兼子も展示場に入ると気難しい空気が取り払われて、二人して加賀友禅を京友禅と比較しながら話して回った。
京友禅は、染めること以外に金箔や刺繍などの装飾を頻繁に併用するのに対して、加賀友禅は染め作業のみと言っていいほど金箔や刺繍を併用しない。
装飾を併用する京友禅はかといって派手かと言えばそうではなく、柔らかい色調を好む傾向があり、その上何色が基調になっているのか、判別しにくいほど多彩な色を使いこなすため、非常に華やかで上品な仕上がりになる。実に高い技術が要求される作業だ。
対して一切の装飾を併用しない加賀友禅は、どことなく地味なイメージを持ちがちだが、こちらもこちらで紅や緑、紫など深みのある加賀五彩と呼ばれる豪奢な色彩を基調としているため、京友禅に負けず劣らず出来栄えは目を奪われるほど優雅で艶やかだった。
由汰は、着飾らずとも、粉吹かんばりにむせ返るような花車を描く加賀友禅のほうが好きだった。
豪華絢爛な京友禅を好む兼子とはその辺りで意見が割れたが、思ったよりも兼子と見る友禅展は有意義なものだった。
兼子は博識だ。色んな方面に目が利くだけあって知識も豊富だった。話していて飽きないのは確かだ。
今回、加賀友禅の匠らの作品がずらりと並ぶなかに、若手の染師による作品が幾つか展示されていた。
匠たちの花車や鴛鴦、孔雀などといった縁起物をモチーフにしたものと違って、若手の作品は都会的で洗練されたお洒落な絵柄をモチーフにした花嫁暖簾だった。
なかでも、ノルウェー出身の画家であるエドヴァルド・ムンクの『生命のダンス』をモチーフにした作品に兼子が興味を惹かれたようだった。
絵の中に描かれている白と赤と黒のドレスを纏った三人の女性を暖簾の上に模している。
こういった絵画を友禅で描いた作品を、由汰は今まで見たことがない。
「この作品は非常にえげつないね」
兼子が楽しそうに呟いた。
「これはムンクの非常に歪んだ生と愛と死を表現した作品の一つなんだが、知ってるかい?」
「いいえ」
「白は無垢さを赤は愛とパッションを黒はまさしく死を暗示している。もっとあけっぴろに言えば白服の女性は処女で、赤服の女性は性的誘惑のシンボルだよ。まさに男を知ったって言う意味のね。そして黒服は不安と孤独と絶望を纏っている。もしかしたら女性としての死かもしれないね。情熱渦巻くダンスの最中にも既に孤独、儚さ、死が暗示されているんだよ。分るかい? それらを踏まえた上でこれが花嫁暖簾だと言うことを重ね見てみると非常に露骨だろ?」
面白そうに片眉をあげて傍らの由汰を見下ろしてくる。
確かに、露骨過ぎて正直ジョークにもならない。
結婚は始まりなんかではなく終わりを意味しているとでも言いたげだ。
結婚に希望や夢を抱くのは滑稽であって、現実はこんなにも因業なものなのだと。
兼子の説明がなければ深く考えることもしなかっただろうが、現代の花嫁と言うよりも自分の意志など関係なくお家のために嫁いでいた時代の花嫁を彷彿とさせる。
この作者はどんな意図でこのモチーフを選んだのだろう。
なんだか凄く物悲しい。
「少々悲観的になりすぎたかな。君にそんな悲しい顔をさせる気はなかったんだけどね」
言われてはっとする。
「そんな顔してましたか?」
「違ったかな? 私から言わせてもらえば、彼女たちの人生は君が思っているほど不幸なものではなかったと思うよ。酸いも甘いも全部ひっくるめてね。少なくとも無垢なままで終わらなかったことは、彼女たちの人生を豊かにしたはずだ」
「それって寂しくなかったってことですか」
「ああ、そうだ。死というのはなんであれ悲しいものだよ。でも、彼女たちは少なくとも寂しい人生ではなかったと私は思う。――君はどう?」
「え?」
訊かれた意味が解らなくてどこか不安気に眉が寄る。
兼子は微笑した。
「もしかして、まだ白い服を着たままなのかな?」
それって処女? つまり童貞なのかって?
虚をつかれて、不覚にも顔が一気に蒸気した。みっともないくらい取り乱して瞠目したまま言葉もでない。
羞恥と動揺とで誤魔化すにはもう手遅れだった。
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