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笑われると思った。大笑いされると。三十過ぎてまだ童貞だなんて知って。
何も言えず口籠って俯いてしまった由汰に、けれど、兼子の反応は想像したものと少し違うものだった。
鳩が豆鉄砲をくらったような顔になって、穴が開くほどしばらく由汰を眺めてから、やおら怖いくらい真顔になると、斜め下を向きながら唇を引き結んで噛み殺すように笑い出した。
小刻みに肩を震わせながら。
「兼子さん……」
思わず咎めるような声が出る。
「いやいや……すまない」
そう言いながらも、兼子の目は柄にもなくぎらついているように思えた。
馬鹿にしている? のではなさそうだし、同情している風でもない。
むしろこれは――。
「歓喜だ」
待て待て――今なんて?
「歓喜だよ。喜んでたんだ、君がまだ無垢なままだと知ってね。いや、変な風にとらないでくれよ? 君は本当に綺麗だよ。穢れのしらないビスクドールみたいにね。心は成熟しているのに体はまだ無垢のままだなんて君は本当に期待を裏切らない。その顔でよくぞ免れてこれたと感動すらするよ。下世話な言い方だけど、天然記念物なみに希少だね」
それはどうもありがとう、と頭を下げろとでも?
満足気に引き上げられた口角を見て、すぐに揶揄われているのだと分かった。
口許をムッと尖らせて右肩だけを上下させる。
そんなふうに言われて気分を害さないわけがない。
「揶揄うのは胸の内だけにしておいてくれませんか」
せめて友禅展が終わるまでは。
無垢なままでいてくれて嬉しいだなんて、他人事だからそんなことが言えるのであって、ちっとも喜ばしいことなんかではない。
二十代のころは焦りもあった。三十を超えてから諦めが先行するようにもなったが、それでも枯れてしまうにはまだ早いだろうと土俵際で競ってもいる。
そういった機会なら幾らかあったかと思う、今までも。それこそかつて通っていたBarなどで。
けれど、その都度どうしても一歩踏み出すことができなくて、そうこうしているうちにあれよあれよと言う間に時が過ぎてしまった。
初めての相手は、ハッテン場などの行きずりの相手ではなく、心から好きだと思える相手と肌を重ねたいと望むことは贅沢なことなのだろうか。
それこそ『生命のダンス』を観て現実を知れとでも言われているようだった。
童貞なんてつまらないものはさっさと捨ててしまえ。
そうでないから――ああ、分ってる。どうせ寂しい人生だよ、と心の中で悪態をついて自ら眉を寄せた。
悔しいが、兼子の言っていることは正しい。
白い服のまま死を迎えてしまったら、それはきっととても味気なく寂しい人生だろうと。
長いものに巻かれることは、時に人を豊かにするのかもしれない。
織部の言うことも多かれ少なかれきっと正しい。綺麗ごとばかりで世の中渡ってなどいけないのだ。
けれど、楽な道を選んでしまっているようでできない。
巻かれ方も分らない。そもそも長いものとはなんだ。自分にとっての長いものとは。
セクシャリティを隠してまでする愛のない結婚のことだろうか。
馬鹿げてる。
そんなことするくらいなら白服のまま墓場に入るだけだ。どうせ死んだら着るのは白装束なわけだし。
結局、なんだかんだと二時間近く友禅展を観て回ってから高島屋を後にした。
そのころ織部がまだいたかは分らない。カフェコーナーは通らずまっすぐに下へ降りたから。
兼子から夕飯を誘われたが断った。
これ以上一緒に居るのは忍耐が持ちそうにもなかったし、それに正直言うと体調もまた悪くなってきていたというのもある。
友禅展を観ている間も、事あるごとに顔色のことや血糖値のことをあれこれ言われて辟易していた。
昌子が来る予定なのだと嘘をついて、帰りは早々にタクシーに乗り込んだ。
あまり上手い嘘ではなかったが、あれこれ考えている余裕がなかった。
タクシーに乗り込んでヘッドレスに頭を預けた瞬間、思った以上の体調の悪化を感じる。
家までは二、三十分てところだろう。渋滞にさえ巻き込まれなければ。
頭が熱を帯びたようにボーッとしはじめる。
眠気が襲い掛かってきて目を開けているのもしんどいくらいに。今にも深い睡眠の中に落ちてしまいそうだった。兼子から解放され、一人になってほっとしたのもあるだろう。
体が重い。リアシートに吸い付いて溶けて離れられなくなりそうだった。
これはどうも単純な疲労や低血糖とは違うな。頭の重さと眠気ときたら今までの経験上、これは高血糖の症状だ。
十四時半頃、ブドウ糖をトイレで口にしてから何も口にしていないのに。
ストレスのせいかもしれない。極度のストレスは血糖値を左右するのだ。運動や気温差もそうだが。
思い当たることと言えば、高島屋で感じたストレスとこの気温差、そして低血糖ぎみだからと用心していつもより一本多く口にしたブドウ糖のせい。
良かれと思ってしたことが仇となった。眠気に負けそうな意識を手繰り寄せながら、思い通りにいかない何もかもにじわじわと沸き起こる苛立ちも抑えきれない。
奥歯を噛みしめて、膝の上の拳を強く握り込んだ。
このまま眠って、つかの間の現実逃避を手に入れることもできる。失明や手足の切断の大いなる可能性と引き換えにだが。
由汰はバックの中からペン型のインスリンを取り出した。
血糖値を測ってからにしたかったがどうやら昼間トイレで使った測定針が最後の一つだったようだ。家につくまでもちそうにもない。
だが、仮に寝落ちしても、家につくまでの間であれば大きな問題ではないかもしれない。
一瞬悩んだ末、一単位だけインスリンを打っておくことにした。
どれだけ打てばいいのか測らない以上分らないから。一単位打っただけで低血糖にまでなることはあるまい。
タクシーのバックミラーを気にしながらシャツの裾をたくし上げると脇腹にインスリンを打ち込んだ。
今日はきっと厄日なのだ。心底そう思わずにはいられなかった。
思ったところで、平静さを保つことは既に難しくなっていたが。
今しがた車内から歓迎しかねる人物を家の前に見つけて、一瞬タクシーから降りるのを躊躇ったが、代金を支払って結局背後でタクシーを見送った。
幸いにも一単位が功を奏したようで眠気は無い。
「ジャン」
日は陰ってきていたが、外は息苦しいほどまだ暑い。
タクシーから降りると全身からどっと汗が滲みでた。
〈定休日〉と札の掛けられた『径』の前、
この界隈には不釣り合いな長身で肩幅の逞し
い金髪碧眼のフランス人が大戸口に腕を組ん
で凭れるように立っていた。
年は五十歳になるのかなったのか。
母の再婚相手のジャンだ。
由汰が家を出る、確か一年ほど前から母が付き合いだした、由汰が知る母の歴代の男の中で唯一まともと言える男だ。だが、好きかと言われれば、また別の話。
「半年ぶりだな、ユタ」
碧眼によく似合う淡いブルーの開襟シャツに黒のスラックス。ビジネスライクのシックな服装だ。
「先週から仕事で日本にきているんだが、今日は少し時間が空いてな、寄ってみたんだよ」
少しハスキーで低い穏やかな声。それでもって驚くほど流暢な日本語だ。
「元気にしていたか?」
「まあね。そっちは? 来るなら来るって連絡をくれれば良かったのに」
そうすればいくらでも雲隠れができたのに、とは言わなかった。
由汰の顔には愛想のあの字も無い。歓迎していないことをこの男相手に隠すつもりはなかった。
「仕事で日本に来たからって、わざわざ忙しいなか、僕のところに毎回寄ってくれなくてもいんだよ」
謙遜ではなく本心だ。むしろ、寄ってくれるなと思っている。関わり合いたくない。
「今日はなに?」
「立ち話もなんだから、どこか座れるところにいかないか。お前さえよければ家にあげてくれてもいいんだが」
まさか、ありえない。
「喫茶店に案内するよ」
『径』から二本ほど外れた通りにこじんまりとした喫茶店がある。
店主は年を取ってはいたが背筋の伸びた品のいい老人で建物は古かったが、レンガ造りの外観と店内とコーヒーは評判がいい。
席に着くとお互いアイスコーヒーを頼んだ。
運ばれてくるまで待って、ジャンが口を開く。
由汰はテーブルに組まれた筋張ったジャンの指を睨み付けながらストローを吸った。
「店は順調にいってるのか?」
「ああ、おかげさまで」
「体調を崩してなどいないだろうな」
それは風邪を引いていないかってこと? なら答えはイエスだ。
糖尿病のことを言っているのであればノー。しかし、ジャンに持病のことは言っていないし、今後も言うつもりなどない。世話になる気も援助を受ける気もさらさらないからだ。
「この通り、元気さ」
「お前の母さんも元気にやっている。お前に会いたがっているよ」
はっ、またその話。
免疫ができ過ぎていてアイスコーヒーだってもう吹き出さない。
三千雄が死んでからこの二年弱、顔を合わせればいつだってこの話題だ。
うんざりしていた。それを隠すつもりはない。
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