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「ジャン。毎回そう言うけど、あの人がそんなこと言うはずがない。僕に取り入りたいなら、どうか今言ったことと真逆のことを言ってくれないか」
ジャンは言い終わらない内から首を横に振って、悲しそうに目を伏せながらひと息ついた。
「それは違う。母さんは本当にお前に心底会いたがっているんだ。できれば一緒に住んでやり直したいとすら言っている」
今度は思わず口に出して叫んでいた。
「冗談っ」
一緒に暮らしたいだって? ああ、どうか言い間違いだって言ってくれ。
由汰が二歳の時、両親は離婚した。
物心ついた時には自分は母に憎まれる存在だった。
フィンランド人の愛した男に裏切られた母の矛先は、その男の面影を色濃く残した由汰に向けられた。
抱きしめられた記憶なんてない。叩かれて殴られて罵られた記憶ならいくらでもあるが。
由汰の家は、近所でもちょっとした噂だった。見かねた近隣住人から通報されて、児童相談所の職員が家を訪問すること数知れず。
由汰が小学二、三年になった頃から、母は方法を変えるようになり、なんとも浅ましい行動にでるようになった。
あたかも己の子供を、かつて裏切った夫にみたてるかのように。
一方的な怒りを、成長すればするほど、愛した男の面影をなおも増して色濃くしていく由汰へ当てこするかのように。
全てが終わるまで部屋から出て行くことを許さず、その場で一部始終見ていることを強いられた。
母が行きずりの男と情事を交わす光景を。
何を求めていたのか、未だに解からなければ知りたくもなかった。
嫉妬――。考えたくもないのに、そんな単語が頭に浮かぶ。
母は、他の男に抱かれている様を見せつけて、己の子供の瞳の奥に、かつての夫を見て嫉妬を仰いだのかもしれない。
そんなものを乞うなど、哀れで惨めでしかないのに。
実際に母が由汰に手を上げることは無くなったが、そういった精神的虐待はそれから二年近く続いた。
由汰が未だに童貞から抜け出せないのは、そこのところが少なからず影響しているのかもしれない。
恐ろしくて辛くて悲しくて、顔をぐしゃぐしゃにしながら涙する幼い由汰を見て、母は満足気にいつも笑んでいた。
男の上で、下で、腰を振りながら片時も視線を緑の目から逸らさずに。
その様を憎々しいかな、今でも鮮明に思い出すことができてしまう。呪いたいほど忌々しい記憶なのに。
そんな女と、今さらどうして一緒に暮らせる?
自分で望んだわけではないのに、小学生のころから緑の目とその生気のない人形のような生っ白い見てくれのせいで、学校ではちょっとしたいじめも受けた。けれど、家に居るよりかははるかにましだったから、熱が出ようとも学校を休むことはなかった。
帰宅恐怖症になったのは小学校五年生のころから。
うらびれた古くて狭いアパート、学校から帰ってくると玄関の前に立ち尽くしてドアノブを手に取って、そのまま、回せないまま立ち尽くす日々が続いた。
何時間も、日が暮れて辺りが暗くなっても、近所の住人から奇異な目で見られても、それでも玄関の前からただ一点、ドアノブを見つめたまま何時間も家の中に入れず、佇んでいたあのころ。心を埋め尽くしていたものはなんだったか。
諦めだったと思う。と同時に、生きていく上での自己肯定感が欲しかった。
自分はこの世に存在していていいし、愛されるべき存在なんだと言う感覚。心の安心感を。
誰かに大切な存在なんだと認めて欲しかった。由汰の存在を肯定してくれる誰かが――誰でもよかった――存在肯定してくれる相手なら。それが由汰の求める全てだった。
母の奇行が無くなってからも、ぎこちない関係はいっそ溝を深めもはや母子の繋がりは失われていた。
高校に進学せず、十五歳で家を出て三千雄のところで住み込みで働くようになった時から母には一度も会っていない。声すら聴いていない。
「ジャンは、あのころの母さんを知らない」
苦々しく言う。
「全部知っているさ」
本当に? 由汰は眉をしかめた。
「彼女がお前に見せた全てを知ったうえで、私は彼女と結婚したんだ。彼女は自分でもどうにもならないほど傷ついていたんだよ。救いを求めていた」
由汰だってずっと救いを求めていた。
「今のお前になら解からないか? 若かったんだよ本当に」
そう、母は若かった。十七歳で由汰を産んだ。
十九歳の時には離婚して怒りと悲しみと恨みだけを糧に体を売って生きていた。身寄りのなかった十九歳の母が女手一つで子供を連れて、露頭に迷わずにはいられなかったのは分らなくはない。
けど、彼女は子供を愛していなかった。少なくとも由汰が知る母は。
そんな母が今さら自分と暮らしたいと? やり直しただって?
脳みそが半分しかないヤツでも分る。答えは絶対的に不可能。いや、絶対に、だ。
「彼女は途中で自分の過ちに気づいたのさ。 その後、お前とどう接したらいいのか分らなくて悩んでいたよ。見ているこっちが辛くなるほどにな。お前が十五歳の時に家を出て行った時も彼女はとても苦しんでいた」
「探しもしなかったろう。それが全てだよ」
ストローでグラスの中の氷をカラカラといじって、ほとんど残したままのアイスコーヒーを端に追いやった。
「それは違う」
テーブル越しに碧眼を見上げる。
「お前の遺書を見つけた時、彼女は裸足で外に飛び出したんだぞ」
「なに」
「裸足で飛び出したんだ、我を忘れるくらい」
そうじゃなくて、聞き間違いでなければ今『遺書』だと言わなかったか?
「取り乱した彼女を見て、近所の人が警察に連絡をしたんだ」
「そんなの……知らないぞ」
「ああ、その直後に南三千雄から電話がきたからな。警察に出した届け出はすぐに取り下げた」
遺書なんて知らない。
脳味噌がキィッと軋むような音をたてて頭を締め付けられるような気がした。
何か残像のようなものがチカチカっと目蓋の裏をよぎったような。
ざわざわとした胸騒ぎが――何か――思い出せない。
それよりも、なんだ。三千雄がなんだと言った?
「……みちさんが、なんだって?」
聞いていなかったのかと、ジャンの眉が訝し気に寄る。
「三千雄は非常に見識が高い人だったよ。お前に頼まれて住み込みで働かせることになったから心配するなと、しっかり断りの電話をくれたんだ。いつでも会いにこれるように連絡先を彼女に伝えてな。数年前に、私が『径』の前を通り過ぎたのを、まさか偶然だとでも思ったのか?」
「いや」
正直、考えることさえしなかった。煩わしいと心底思っただけで。都内でバッタリなど、随分不運だな、と己を呪っただけだ。
それよりも、知らなかった。
三千雄がそんなことをしていたなんて、全く気が付きもしなかった。
「それがお前のためだと思って、彼女は全てを三千雄に託したのさ」
もしその話が本当なら、母は初めて正しい決断をした。
けれど、由汰が二十歳を迎えたと同時に母の戸籍から黙って籍を抜いたことまでは知るまい。
そう思ったのに、ジャンの言葉は由汰を再び驚かせた。
「お前が自ら籍を抜いて三千雄の養子になったのも知っているさ。三千雄からきちんと連絡をもらったからな。自分が死んだあと、あの店をお前に贈与したいがとてもじゃないが税金を払えない。養子にさえなればお前にあの店を心置きなく相続することができるからとな」
そんなことまでも――。衝撃だ。では、もしかして遺書についても三千雄は知っていたのだろうか。由汰があの雨の日の朝、自殺をしようとしていたと? 地面に転がった反物を見て心変わりしたとでも?
由汰はじりじりと指先で下唇をいじった。
そもそも、その遺書は本当に自分が書いたものなのか。誰に宛てて? 母に?
まさか、ありえない。だって、もし本当に自殺をするつもりなら、母に残す言葉など一つとしてないからだ。
それに、三千雄はいったいこの十数年で母とどれだけ連絡を取っていたのか。
事実と推測が交錯して頭の中を掻きむしりたくなる。
「ああいうのを生粋の江戸気質と言うんだろうな。きっちりけじめをつけてお前の足場を固めてくれたんだ。お前がこうして立派に独り立ちできるようにまで成長できたのは、紛れもなく三千雄のおかげだろう。彼女はそれを知ってさらに自分の不甲斐なさを責めた。なあ、もう許してやったらどうだ。彼女にやり直すチャンスをくれ。ベッカだってお前に会いたがっているんだ。一緒にみんなで暮らそう」
ベッカは母とジャンとの間に生まれた娘で、今年で確か十一歳になる父親違いの妹だ。
顔も声も知らない。髪の色も目の色も。ケーキの種類は何が好きでどんな本を好むのか。何一つ知らない、知りたいとも思わない妹だ。
ベッカは知っているのだろうか。由汰と母がどう言う経緯で疎遠になったのかを。もちろん十一歳の少女が知るはずもないだろう。知るにはまだ若すぎるし、話のネタとしてはあまりにも過激だ。
どんな嘘八百を並べ立ててベッカを言いくるめた?
百歩譲って、母が本当に過去の過ちを悔いていて由汰に詫びたいと思っていたとしよう。
そんなことは絶対にありえないが。
仮に思っていたとしたら?
どう考えてもやり直すことなんて不可能だし、まして一緒に暮らすなんてことは世界がひっくり返っても実現することはない。この先永遠に。
縁もゆかりもないフランスに行くなど論外だ。話にならない。
「悪いけど、その話はもうおしまいにしてくないか、ジャン」
「私は、お前の家族としてお願いしているんだ」
「この件については再三話し合ってきたと思うけど、そのたびに僕らは平行線を辿ってる。母のことで同情をかおうとしても僕の気持ちが一ミリたりとも変わることはないよ。それに、ジャンも言った通り僕はもう南の養子なんだ。もう家族でもなんでもない」
自分でも驚くほど冷たい言い方だった。けれど、それを気にする余裕はもうない。
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