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ジャンがその端正な顔に怒りを噛み殺しているのが分る。
「彼女のことを少しは慮 ってやれないのか?」
「僕には母親なんていないよ。もうね。もっと言えば最初から存在さえしなかった」
「ユタっ、実の母親に対してなんだその言い方はっ」
「じゃあなにっ? 僕の気持ちは慮ってくれないのっ?」
「Merde!!」
バンッとテーブルを拳で叩きつけながらジャンが吐き捨てた。
フランス語で確か「くそったれ」。
兼子が翻訳した経済学かなにかの本に、そう言う単語のタイトルがあったと記憶していた。
本屋なんかをやっていると、どうでもいい知識が増えていく。
「母のことを思って言っているのは充分に伝わってるよ。僕だっていつまでも子供じゃない」
由汰には理解できなかったが、ジャンは本当に良き夫であり良き父であり、そして心から母を愛しているのだろう。それだけは分る。
「でも、僕の気持ちはどうなる? 僕のことを考えて言ってくれたことはあるの?」
どうにか冷静さを取り戻そうと拳を開いてテーブルに伏せる。
ジャンの声は既に平静さを取り戻していた。
「もちろんだ。常に彼女も私もお前の最善を考えて言っている。由汰、フランスはゲイに寛大だ。偏見もなければセクシャリティを無理に抑圧している人間も少ない。パリの市長はゲイだ」
だから? と言いたかった。
ジャンも織部と同じことを言うのか。
「僕は、別に何も困ってないよ。不自由なこともない」
「なら、今付き合っている特定の人が?」
それについては小さく鼻で笑った。
「いや、いないよ」
「なら作るべきだ。私たちを安心させたいならお前も家族を作れ」
簡単に言ってくれるなと、この件に関しては苛立ちを込めて顔を背けた。
そろそろ精神的に限界が近い。いや、興奮していて気づかなかったが、どうも先ほどから体の調子も悪い。ストローの袋を小さくちぎって捻りつぶす指先がさっきから小刻みに震えだしている。
血糖値が無意味に上と下を行ったり来たり。いったいどうしろと?
今にも頭を掻きむしってテーブルを叩きつけてジャンに思いのたけを満足するまで怒鳴り散らして、「もう二度とその面見せるな」と捨て台詞を吐きながら荒々しくこの場を去りたい衝動にかられる。
けれど、なんとか溜息を吐いて背に凭れると目を閉じて天井を仰ぐことで我慢した。
「ジャン、頼むから僕にもう構わないでくれ。気持ちはありがたいよ。本当だ。けど、僕は現状に少なからず満足してる」
なるべく真摯な対応を心がけた。やり合うには疲れ果てていたから。頭も少し混乱している。穏便にこの場を収めたい。
それはジャンも同じだったようで。
「いいだろう。今はそれで分かったと言っておくが、お前に関わらないでいるなんてことは今後も請け負いかねる。なんと言おうと私たちは家族だ」
まだそれを言うのか。もううんざりだ。
「せめて彼女を――ベッカを愛し、お前を愛している良き妻で良き母親であろうと努力している今の彼女を認めることだけはしてくれ」
それは、と抗議の言葉を口にしようと開きかけたところを手で制される。
それ以上は言うなと、辛辣な表情に身を引くしかない。
「明日の朝の便でフランスに戻る予定だ。また、会いに来る」
できれば事前に連絡をくれ、と心の中で呟いた。
伝票を持って席を立ったジャンが、由汰に背を向けて何か考え込むように立ち止まる。
項垂れていた頭を上げて、どうしたと眉を寄せる由汰に、
「時には妥協も必要だぞ。生きていく上ではな」
声は至って穏やかだったが、手の中の伝票がくしゃくしゃに握りつぶされるのは見逃さなかった。
由汰の口から諦念めいた溜息が漏れる。
それを無言の合図と受け取ってジャンはその場を去った。
妥協とは、つまり長いものに巻かれることとどう違う?
どいつもこいつも、理想論ばかりかかげて自分勝手に表面ばかり綺麗に取り繕おうとする。
本当の自分をオブラートに包み隠して。
そんなことになんの意味がある。
理想論を並べ捲ったところで病気は治らない。綺麗ごとばかりでは自分自身を強く保ってはいられないのに。
気づけば時刻は既に十九時を回ろうとしていた。
家に着くなりバッグをちゃぶ台に叩きつけた。
むしゃくしゃしている。朝からずっとむしゃくしゃしている。
今日は最悪だ。
電気もつけずに暗い中で腰を下ろして、ちゃぶ台に肘をつくと両手で顔を覆った。
少し眩暈がする。俯いていると目頭に熱いものが込み上げてくる。
奥歯をクッと噛みしめていないと、今にもわっと泣き出してしまいそうだった。
体が怠かった。手も足も指先と言う指先全てが冷え切っていた。
一単位とは言え、打ってから既に二時間。言うまでもなく低血糖の症状だ。血糖値を測らなければ、タクシーの中では一体いくつだったのだろう。今思えば随分と無謀なことをしてしまったような気がする。
高血糖だろうと見なし、インスリンを打った。そう、見なしで打ったのだ。
意気消沈している暇などない。今やるべきことをやれと自分を叱咤する。
だが、庭に干したままのシーツや洗濯ものを思い出すと、動くのが途端面倒になってくる。洗濯を畳むのは明日に回しても、シーツは取り込んで布団を敷かなければならない。
それより先に、今すぐにでも血糖値を測らなければならない。
味気ないご飯を無理やりにでも食べなければいけない。
インスリンを打って、お風呂に入ってまた血糖値を測って、食べたくも無い甘ったるい補食を食べて、イライラして眠れない頭を騙しながら、今宵は悪夢にうなされませんようにと祈りながらどうにかして眠りにつかなければならない。
今日ほど睡眠薬の在庫がきれていることを恨むこともないだろう。
バッグから携帯電話を取り出してみたが、着信一つなかった。
認めたくないが、織部からの連絡を待ちわびている。
今となってはもうどうでもいいことなのに。
由汰の手からはらりと畳に携帯が落ちる。
そのまま立ちあがって相変わらず暗い中で測定器の準備をしながら弾かれたように顔を上げた。さっき、大戸口の鍵を閉め忘れたような気がした。
慌てて上がり端から降りて確認しに行く。けど、取り越し苦労だったようだ。鍵はきちんとかかっていた。
はあ、とやりきれなさに息が漏れる。
今朝のニュースで少年の一人が遺体で発見されたことを知って、なぜか以前にもまして神経が過敏になっているような気がした。
じっとりと汗が額に滲む。
むせ返るようなむっとした空気を吸い込んで、ようやくそこで気が付いた。
冷房のスイッチを入れていないことに。
どうりでイライラが増すはずだ。
由汰は生え際を手のひらで掻き上げながら額の汗を拭った。
暗い店内を居間に向かって戻る。とその時、不意にぞわっと肩の辺りに異様な気配を感じて恐る恐る背後を振り返った。
ゆっくりと、凍てつくような視線を感じて。
ゆらり……と影が動く。
いつかの夜のように。
大戸口の前で何者かがじっとこちらを見つめている。
街灯がじゃましてシルエットだけ。
恐怖に竦みあがるよりも先に怒りが込み上げるが早いか、気が付けば駆けだしていた。
それに気づいたシルエットが大戸口から離れて逃げ出していく。
大戸口を乱暴に開け放って由汰もその後を猛ダッシュで追った。久しぶりの全速力に足がもつれそうになる。けれど、見失ってたまるかと気概で足と腕を動かした。
最悪に気分の悪い時に現れたのが運の尽き。まさにアドレナリンハイボルテージ。
そのせいで、低血糖の症状さえどこえそのだ。
なにがなんでも捕まえてその面拝んでやると。
由汰を怖がらせた罰をこの手で与えないことにはどうにも気が収まりそうになかった。
どういつもこいつもと、全ての八つ当たりを今目の前を必死で逃げ惑う背中に集中させる。
やや小太りの男。
冴えないデロデロの伸びきった焦げ茶のTシャツに太めのジーパン。重たげで大きなショルダーバッグ。
のっしのっしと走る重たい足取りとぜぇーぜぇー息の上がった肩を見れば判る。あきらかな運動不足。
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