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目の前の男が右の路地を曲がった。
夕飯時とあって幸いにも人通りが少ない。これといった障害もなくスピードを上げられる。由汰も続いて路地を曲がった。徐々に距離が縮まりつつある。
それに焦りを感じたのか、男はビルとビルのほんの僅かな隙間に体を横にして捩じ込もうと試みている。
思わず愚か者め、と罵りたくなった。そんな隙間、由汰だって通り抜けられない。
案の定、男はビルの隙間を諦めて再び慌てて走り出す。そうこうしている内にさらに距離は縮まって、追い詰められた男が右か左かと焦るあまりまともな判断ができず、まさに右往左往しているところを背後から掴みかかった。
前のめりに倒れ込むのをなんとか踏みとどまった男の腕と服を掴んで、力づくでくるんと正面に向き直させる。
墨でなぞったような太短な眉に一重の大きな垂れた目。
そして、四角いフレームの大きな黒縁メガネだ。似合いすぎだった。しかも衝撃でずり落ちている。二十代後半あたりか三十代か、判然としない。
男の顔は恐怖に青ざめていた。実際には恐怖を滲ませながら、酸素不足から真っ赤な顔をして大汗を流しながら沢山の酸素を必要としているように見えた。
肩と腹をぜぇーぜぇー喘がせている。
由汰も久しぶりのダッシュに同じくらい息が上がっていた。
息を整えながら乾いて張り付いた喉に唾を飲み込む。
おそらく由汰の顔も青白い。この男とは違った意味合いで。
「君、僕の家を覗いてたろう。……つい、この間も」
「す、すみません!」
綺麗なつむじを由汰に向けながら、男が勢いよく頭を下げた。
思わずギョッとして一歩下がる。
「オレ、趣味でフリーのジャーナリストをやってるんす! 山田って言います!」
山田、お前……。
「趣味で僕の家を覗いていたのか」
「え?! いやいやいや、オレにそんな趣味はないっすよ!」
と、慌てふためく顔をさっと上げる。ずり落ちたメガネのブリッジを中指でクイッと上げた。
由汰は肩で息を整えながら、そんな山田を胡乱な眼差しで眺めて腕を組んだ。
「なら、なに用で?」
「それは、その、例の失踪事件についての取材用で」
なるほど、そう言うことだったか。
今更だが、こんな男のために必死に走ったのだと思うとどっと疲労が全身を襲う。
そう、これはなんてことない。ただの粋狂なマニアならぬオタクだ。
織部が以前言っていたまさにそれだった。
ゆらりと揺れた影に怯えて竦みあがっていた自分が馬鹿みたいだ。とんだ茶番だ。
人通りの少ない路地の頼りない街灯の下で、目的を一瞬にして見失ったような気分だった。
だが、しかし手ぶらでなんて帰れるか。
「名刺は?」
言われて、おずおずと差し出す山田から名刺を受け取った。
山田、フリージャーナリストとだけ印字された、なんら変哲もないありきたりな名刺。
フルネームではないのが気がかりだが、山田だけでハンドルネームにしている可能性もある。捨て置くことにした。
「で? それで、事件についての調査は順調なの?」
不機嫌極まりない顔で問われて、山田の顔が申し訳なさそうにしぼむ。
悪い奴ではなさそうだ。
「あまり進展はないっすね。強いて言えば調べ上げてあるところまで、ようやく今日ニュースになったってくらいっす」
「調べてあるところまで? ……本当に?」
「え? あぁ、はい」
叱られた猫のようにビクビクしている山田に驚きの眼差しを送る。
どうやらオタクの情報網を甘く見ていたようだ。
不意にこんなところにお手軽なニュースレターが転がっていることに気が付いた。
なにも織部ばかりじゃない。警察になんぞ聞かなくても情報を持っている奴は持っている。
「なあ、山田」
自分の方が優位だと主張するために呼び捨てにしてみた。
効果はあったようでふくよかな山田の顔に緊張が走る。
「それ、僕にも詳しく教えてくれないか?」
どれくらい立ち話をしていただろう。帰宅途中で見つけた時計によれば、既に時刻は二十時半を過ぎていた。
暑さだけじゃない、低血糖のせいで変に冷たい汗までもが全身から噴き出ている。体がかじかむように末端から冷えていた。
ビル伝えに手を這わせながら足を引きずるようにしてようやく家に辿り着くと、開けっ放しになっている大戸口に手をついた。
山田を無我夢中で追いかけた時、鍵も閉めずに開け放ったままの状態。誰も侵入していないことを祈る。
戸枠に腕をついて一度ぐったりと項垂れる。
よかった。気を失わずに辿り着けたことが涙が込み上げてくるほど嬉しい。
さすがに泣きはしないが、それくらい怖かったし、同時に安堵していた。
でも、もう一歩でも動いたら崩れ落ちてしまいそうで、何か助けになるものはないだろうかと店内に目を向けた。
霞む目をどうにか復活させようと頭を振る。
けれど、無常にも何か助けになるようなものはなく、その上、店内は鬱蒼として真っ暗だった。加えて酷く静謐に満ちている。ゴクリと喉が鳴った。
無意識に緊張が走る。
山田から聞いた話が思いのほか衝撃的なものだったから、その恐怖がまだ尾を引いているのかもしれない。
店内は冷房を点けていかなかったから外と同じくらい蒸していた。
戸を閉めると、目を凝らして本棚を頼りにゆっくり進む。
気を抜けば膝から一気に落ちかねない。冷蔵庫までなんとか持ちこたえる必要がある。
店内は本当に暗くて何も見えなかった。怖いくらいに嫌な静けさが由汰の耳をざわつかせる。電気を点けたいが奥のレジカウンターまで行かないと無い。
ほんの数メートルの距離が至極遠く感じた。気後れしそうになるくらい。
山田から聞いた事件についての詳細は身の毛もよだつような惨劇だった。
公園で発見された堀北蒼流の遺体は全身の血が全て抜かれて丁寧にエンバーミングされていたと言う。エンバーミングとは死体防腐処理のことで、土葬が主流の欧米では、わりと葬儀前に行われている通常処理だが、火葬するのが主流の日本ではその方法はあまり親しくない。エンバーマー資格保持者も海外に比べたら断然に少ないのが日本だ。
性的暴行があったかなどは、エンバーミングされた後では分からないと言う。
ただ、先日発見された堀北蒼流の身体からは、抵抗した傷跡らしきものは一つも見かっておらず、睡眠薬投与なども疑われているが、それらもやはり、エンバーミングされた後では判断不可能だとか。死亡推定時刻も不明のままだ。
堀北蒼流のエンバーミングされた遺体には、中世ヨーロッパの貴族のような衣装が着せられていた。
山田が見せてくれた現場写真には、奇妙な衣装を身にまとった堀北蒼流が、どこかの木の根に凭れて座らされている状態で撮影されていた。
これが、遺体なのか、と不気味に思うほど綺麗なものだった。
ただ、そうただ――。
由汰は、恐怖で粟立つ体を本棚に預けて思わず両腕を抱き込んだ。
写真なんて見るんじゃなかった。とずっと悔やんでいる。
堀北蒼流の変わり果てた顔。身なりは綺麗に着飾られていたものの、長谷川たちから見せられた若々しく生気に満ちた少年の面影はすっかり失われていた。
あんなものを携帯端末に保存して持ち歩いている山田の神経がしれない。
画質が荒くて鮮明ではなかったけど、一目でわかった。それが死人の顔なのだと。
思わず口許を覆って、直視できずすぐに写真から目を逸らしたが、それでも、脳裏に映りこんでしまった画像は消せない。
遺体は不気味なほど綺麗に見えたが、ただ、目が、くり抜かれて無かった――。
真っ黒く開いて落ち窪んだ眼窩と、顎の筋肉を全て削がれたようにぽっかり開かれた無気力な口。
それはまるで、沈みかける太陽と突如血の色に染まった真っ赤な空が、フィヨルドの自然を劈く終わりのない叫びのように感じて、不安に耳を塞ぐムンクの叫びのそれに似ていた。
興味本位で聞くような話じゃなかった。
それに、他人事なんてどこかで思っていたが、慎重に考えてみれば、その残虐な手口で彼を殺した犯人は、ともすれば由汰の知らぬうちにこの店に何度も出入りしていた可能性があると言うのに。
そう思うと、とっさだったとは言え、大戸口を開け放ったまま飛び出して行ってしまったことを激しく後悔する。
店内で、レジカウンターで、犯人と知らず、顔を合わせたかもしれない、声をかわしたかもしれない。
怪しい客なんて一人もいなかった。
犯行後も、犯人は『径』を訪れただろうか。警察の聞き込みや家宅捜査が入ったことで警戒させてしまったと言うことはないだろうか。
変にNKビルまで防犯カメラなんかを調べにいったことで、勘違いさせてしまったらどうだ。
実は犯人について思い当たる節があって、そのことで由汰が色々と嗅ぎまわっていると犯人が思い込んでしまっていたら――。
いや、いやいや考え過ぎだろう、と頭を振った。疲れているから変に臆病になっているだけだ。とにかく、とにかく今は店内の電気をつけるのが先だ。
由汰は気を取り直して本棚を頼りに足を進めた。
山田と会って、事件の詳細以外にも実は収穫があった。
初めて織部たちが『径』に来た夜、彼らに思い出せないと言った堀北蒼流について覚えた違和感についてだ。
長谷川に見せられた写真とどこか違うと感じた点。
山田の一言で思い出した。
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