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 帰り際、随分肩の力も抜けて砕けてきた山田が、揶揄うでもなくむしろ羨望の眼差しでこう言ったのだ。 「それにしても、いいっすね。カラコン」 「カラコン?」 「カラーコンタクト。実は憧れてて。オレもしたいって思うんすけど、目の中に異物が入ってるってのがどうも駄目で。かっこいいっすよね。しかもちょー似合ってるし!」  と言って由汰の目を指さしてきたのだ。  まさしく目から鱗だった。  そうだった。まさに覚えた違和感はそれだった。  あの日、彼らが書店を訪れたあの日、「あ……」と思ったのだ。  長谷川たちに見せられた写真は黒目だった。けれど、あの日店内で会った彼は、鮮やかとまではいかない、彼には少しばかり不自然とも思えるグリーンの目だったのだ。  その後すぐ、もう一人の光音・エメリーに声を掛けられたことからその記憶はすっかり意識から取り除かれてしまっていたが。  しかも、由汰が勝手に堀北蒼流は日本人だと思い込んでいたことだが、実は彼もハーフだと言うことが山田の情報から知れた。  韓国と日本のハーフ。見た目では判断しにくい。  カラーコンタクトについて、長谷川たちに報告するべきか悩んでいた。  大したことではないような気がするから。今時、お洒落でカラコンをする奴らなどごまんといるのだし。  なんだ、そんなことかと思われるのが関の山だろう。けれど、やはり一応連絡はしておこう。織部に電話するのは昼間の家族団欒の件もあってどうも気が重い。  長谷川になら――確か名刺がレジカウンターの引き出しに。  と、考えを巡らせていた時だった。  シャリッ――  と、微かに、靴底が土間を擦る音がした。  はっとして全身に緊張が走る。  真っ暗闇に目が慣れてきたとはいえ、眩暈と目の霞と朦朧としかけた頭では、平衡感覚さえ保っているのが危うい。  シャリ――  今度はもっと近くで聞こえた。歩みを止めている自分の足音じゃないのは確かだった。 冷や汗が背中をつたう。確実に感じる人の気配。  真後ろだ。今まさに、由汰の真後ろに誰かがいる。  ははは、と吐く息が震えた。  恐怖で全身が粟立つ。  どうしよう。怖い――。  バクバクと爆ぜる心臓の音で体が傾きそうになるのを堪えながら、息を潜めて瞠目する由汰の顔の横を、スッと光りの線が通り過ぎた。 「――っ」  反射的に口を押える。声にならない悲鳴をあげた。  丸い灯りが目の先の書棚をくるくると照らし出した時、背後からぐいっと肩を掴まれた。 「わああああ――!」  とっさに足がもつれる。両手を振り回しながら棚に背中をぶつけて、そのまま尻もちをついた。  やみくもに闇の中に手と足を突き出してばたつかせて、「寄るな!」と叫ぶ。  何者かの腕らしきものを勢いで弾いた。  誰かいる! 今何かに触った! という事実が由汰の恐怖をさらに煽った。  渾身の力を振り絞って抵抗する。  こんなところで殺られるなんて嫌だ。  完全にパニックに陥った由汰の耳に鋭い男の声が響く。 「落ち着け!」 「触るなあ! ああああ!」  暴れ回る由汰の両手首を男の大きな手が掴んだ。同時にカランと音をたてて土間に懐中電灯が転がる。  動きを封じられて焦った由汰は、とち狂ったように暴れ出した。 「嫌だ! 放して!」 「おい! 聞け!」 「嫌だ! 嫌だ嫌だ――!!」  髪を振り乱して無我夢中で叫びながら頭を縦に横に乱暴に振る由汰に、男が小さく舌打ちをする。  悪態をつきながら、強引に男が由汰に覆い被さった。  はぁ――…っ! と吸い込んだ悲鳴はあまりの狂気に声にならなかった。  尻もちをついた状態のまま、男の胸の中にきつく抱き込まれる。  このままどうなる? 隠し持っているナイフで横っ腹をめった刺しか、それとも首をへし折られて――。  由汰の恐怖が限界値を超えかけたその時だった。 「しぃー……落ち着け」  大丈夫だ、と今度ははっきりと男の声が耳に届いた。  由汰は、男の脇から伸ばした手を背中の上で浮かせたまま息もつけず硬直した。  今にも爆ぜそうな心臓の爆音が耳にまでガンガン響く。男の温かな吐息を首筋に感じた。 「……なに」  呟いた声は掠れてほとんど音を伴わない。  男の肩に乗せた顎がガクガクと震えている。力が入らないほど、手も足も体の何もかもが震えていた。 「落ち着け。大丈夫だ」  低くて宥めるような優しい声。  ああ、こんな声も出すんだな。  安心して泣き出しそうになる頭の中で呟いた。 「……織部さん」 「ああ、すまない。驚かすつもりはなかった」  織部の温もりに全身の硬直が取れていくのが分かった。  なんなんだよ、と心で毒づきながら顔がくしゃくしゃになる。  こんな状況なのに、今ここに織部がいることが嬉しい。  もう会いに来てくれないのだと思っていた。声を聞くことすらないと思っていたから、こんな状態でも、今こうして触れていられることが嬉しくてたまらない。  織部の腕の中にいるだけで、不思議なことに不安も恐怖も今日一日の煩わしかった出来事も苛立ちも全て霧散していくようだった。  織部の肩に顔をうずめると両手でたまらずギュゥとしがみつく。  どうせすぐに突き放されると思った。けど、意に反して、織部は由汰の背中と頭に手を添えたまま、子供をあやすように胸の中へ抱きしめてくれる。 「びっくりした」 「ああ」 「取り乱して、恥ずかしいよ」 「そうか?」 「犯人じゃないかって……」 「それについては、お互いさまだな」  と織部が鼻で笑う。 「電話してみりゃ出ないし、来てみりゃ戸口が開けっ放しだ。中で何か起こってるのかと思ってな」  そこまで言われてようやく理解が追いつく。  家の中を警戒して見て回っていたところに、由汰がなんともぎこちない動きで家に戻って来た。 「体は? なんともないか?」  体を放して由汰の顔を覗き込んでくる三白眼が、土間に転がった懐中電灯に照らされて優しく細められる。 「ああ、……そのことなんだけど」  言い終わらない内に視界がみるみる狭まっていく。 「南?」  どうも、限界らしい――…。と言った言葉は声にならなかったようだ。 「おい!」  織部の呼びかけが半ばでプチッと途切れた。  温かいものが唇に触れたかと思えば、次には甘くて冷たいものが流れ込んでくる。  躊躇うことなく、与えられるままに液体を飲み込んだ。  触れていた温もりが、つかの間唇から離れると、再び由汰のもとへ戻ってくる。  流し込まれる甘い液体を微睡みの中で夢中になって飲み込んだ。  喉が渇いている。だがそれ以上に――。  また温もりが離れた。  行かないでくれ、と思った。  餌付けを待つ雛鳥のように、離れて行った温もりを追い求めて唇を彷徨わせた。  もっと、欲しい――。  再び戻ってきた温もりに飛びつく。  流れ込んでくる甘い液体を貪るように飲み下しながらその温もりに吸い付いた。  温かくて気持ちがいい。ほっとして離れ難い。  離れかけた温もりに追いすがってまだここに居てと温もりを()む。  ビクッと震えたそれが、その内にゆっくりと圧力をかけてきて――口を開いて迎え入れると、侵入してきた熱く肉厚なそれにしゃぶりついた。  ミルクを求める赤子のように。  ゆっくりと蕩けるような濃厚なキスに微睡みの中で酔いしれる。角度を変えて何度も繰り返される甘い口づけに必死に自分も舌を絡めた。  上顎を舐められて、舌を吸われて奥まで蹂躙される痺れるような口づけに身体が火照る。  唇の隙間から堪えきれず甘い吐息が漏れた。  気持ちいい――。  朦朧とする頭で、うっすらと開けた目に、耳朶と短髪が見える。  無意識に織部だ、と認識した。  上体を抱き起された状態で、深く口づけられている。  ああ、もっとこうしていたいと、自然と腕が上がった。  捕らえたものは、愛しいと思う男の後頭部。クシャッと髪を鷲掴んだ拍子に、織部の顔がサッと離れた。  ――しまった、と慌てて後頭部に伸ばした腕を引っ込めた。  織部の顔がみるみる内に歪んでいく。 「…………」  なんたる失態だ。湧き上がってくる後悔に顔が赤面しそうになりながら青ざめていく。  引っ込めた手を握りしめて、とっさに謝ろうとしたが声が詰まって出なかった。  そして挙句の果てに、 「クソッ」  織部が吐き捨てた。由汰を見下ろしながら苦々しそうに。  悲痛に胸が痛まなかったと言えば嘘になる。  ホモフォビアの織部に、自分が無理やりにキスを迫ってしまったのだろうか。  どうしよう、思い出せない。  身をよじって織部の腕の中から抜け出そうとした時、 「なんてタイミングだ」  織部が、思いがけず丁寧にゆっくりと由汰の上体を座らせると、支えていた腕を離して携帯電話を握りしめた。  その手を額に押し付ける。  かける言葉がないほどに、織部が落ち込んでいるように見えた。  タイミングとはなんの話か、尋ねようとして、不意に遠くから聴こえるサイレンの音に眉が上がる。 「……救急車」 「ああ、そうだ。救急車だ」  織部が顔を上げて溜息を吐いた。 それを見て、由汰はとっさに全てを理解した。勘違いだったのだ。  クソッ、と吐き捨てた言葉も、苦々しく歪ませた顔も、救急車を呼んでしまった後に、目覚めてしまった由汰のタイミングの悪いさを恨んでのことだったのだ。  目覚めたことは大変に喜ばしいことではあったけど、救急車には無駄骨を踏ませてしまった。  サイレンがまさに大戸口の前でピタリと止まる。クルクルと回る真っ赤なライトだけを残して。 「待ってろ」  織部が言い置いて立ち上がると、上がり端を下りて外へと出て行った。  ことの説明を救命士にして、謝罪をしに。

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