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 見慣れた居間をゆっくりと見まわす。  ちゃぶ台に置かれた、蓋が開いたままのポカリスウェットのペットボトルを見て、由汰は自分のおかれた状況を把握した。  あのあと、織部に抱き着いたまま低血糖で気を失った由汰を織部が居間まで運び、なんらかの応急処置を施してくれたのだろう。  無事に目覚めたところをみれば。  そう、おそらく、ポカリスウェットを口移しで由汰に飲ませたのだ。血糖値を上げるために。  低血糖で失神するなど、初めてとは言えあってはいけないことだった。  うかつ過ぎた己を殴りたい気分だ。   部屋の中は冷房がきいて涼しくなりかけていた。  ふと、今になって自分が行くべきだったのではと思い至るが後の祭りだ。  早々に説明と謝罪を終えた織部が戻って来たから。 「すまない」  ありがとう、と言えず、そんな言葉が漏れる。 「ああ、それより具合はどうだ」 「……どれくらい眠ってた」 「あ?」 「具合はかなりいいよ。どれくらい眠ってた?」 「十五分ってとこだな。あと五分はやく起きてくれれば」 「ああ、ごめん」 「ひとまず、目覚めただけで良しとしろ」 「不甲斐ないよ」 「何がだ」 「救急車を呼ぶ前に起きられなくてさ」  と、敢えておどけて笑ってみせた。  けれど、立てた片膝に腕を乗せた織部は憮然としたまま。 「こっちは肝が冷えたんだ。笑い事じゃない」  言われて、確かに。と思った。  織部も少なからず怖い思いしたに違いない。 「ポカリスウェットを――その、飲ませてくれたのは織部さん?」  口移しで? とまでは言えなかった。 「他に誰がいる。ポカリスウェットはお前の好物なんだろう?」  その一言で、微睡みの中でもっともっとと織部を欲した感覚が蘇ってくる。  失言だったと、とっさに口許を手で覆って隠しようもないくらい顔を真っ赤にした。 「ご、ごめん」 「気にするな、ただの救命処置だろう」  なんてことないように真面目な顔で言う。  甘い口づけなんてなかったかのような素振りだった。  温もりがまだ舌先に残っているように思えるのに。――いや、きっと、そうきっと、ただの救命処置だったのだ。  少しだけ、なぜか胸がキリリと痛んだ。  黙っていると、織部が言う。 「ま、そう思うなら次から冷蔵庫にゼリーくらい入れておけ」  そこで疑問が沸いた。失神した人への対応についてどうも詳しい。 「どうしてそれを?」  低血糖で失神した人への対応は、とにかく糖分を口に放り込むこと。例えばゼリーなどを歯茎に擦り込んだりなどして。その後の目安は十分。十分経っても目を覚まさなければ救急車を呼ぶようにとなっている。  織部はまさにそれを忠実に行おうとしていた、いや、実際行ったのだ。 「お前の持病については調べてあったんだよ。あの妙にふらついていた夜の後にな。だが言ってもにわか知識だけに、今回みたいなケースでの対応はさすがに持ち合わせてなかった。正直慌てたぞ」  聞けば、知り合いの医者に電話をして教えを乞うたのだという。  なるほど。随分と手間を取らせてしまった。  とにかく、一緒にいたのが織部で助かった。そうでなかったら――もしも一人だったら、確実にあの世行きだった。今頃は遠くに三途の川が見えてきた頃だ。一日で二度も棺桶に爪先を突っ込む羽目になるとは。 「血糖値、測ってみないと」  ボソリと呟いた由汰の言葉に、織部が迅速に反応する。  待ってろ、と言って由汰のバッグを投げてよこすと、テレビの横の多段棚から測定器用の針が入っている箱を持ってきた。  不思議な顔をしていると、どうやら由汰が失神してすぐ、知人の医者に電話をしながら短い時間であれこれ物色したらしい。職業病とでも言うべきか、刑事らしい行動ではあっても、無遠慮だ。  だが正直、今はこの迅速な対応がありがたい。  バッグの中から測定器を取り出して、手渡された針をセットする。  血糖値は70mgジャスト。通常の血糖値は70mgから110mgとなると、今の由汰はぎりぎりのラインだった。飲まされたポカリの量がどれほどだったか分らないが、失神したことも合わせると、おそらく失神時の血糖値は50mgか、もしくはそれ以下。  数値を見て思わず黙り込んでしまった。  小刻みに震える指から織部が測定器を取り上げる。 「とりあえずは飯だ」 そう言って立ちあがると冷凍庫を開けた。 と、同時に溜息が漏れる。 「一つ確認だが、これがお前の毎日の飯か?」  冷凍庫を覗き込んだままの織部の顔が、どれだけ呆れたものなのか容易に察しがつく。 「充分だろう? 最低限はまかなえてるよ」  加えて言うなら、いつもはそれにお味噌汁がついてもう僅かばかり豪勢だ、とまで言わなかった。結局のところ質素には変わりない。 「俺の家の冷蔵庫の方がまだましだぞ」  ああ、そうだろうさ。あんな綺麗な奥さんのいる家の冷蔵庫が、牛乳とマーガリンしか入っていないような冷蔵庫と同じはずがない。それとポカリスウェット。心づくしの冷凍のおにぎりだ。 「いつも定休日にまとめて買い出しに行くんだよ。今日は不幸にも日曜日で食材が一週間のうちで一番少ない日なんだ。仕方がない」 「ふん。おおかた、単位の計算が面倒だからって言ったとこだろう」  図星を指されて思わずむくれてしまう。  由汰は体制を整えてちゃぶ台の前に座り直すと、冷凍庫からおにぎりを一つ出してレンジに放り込む織部の背中を眺め見た。  シンクの上の棚や下の棚をあれこれ漁って、ヤカンを火にかけたりしている。  手慣れた動作だった。  こう見ると、織部という男が意外にマメなのだと解かる。 「南、おい」 「え」  見惚れていてしまったとは口が裂けても言えない。  うっかり織部の動きを目で追っていたら、呼ばれたことにも気が付かなかったなんて。 「辛ければ寝転がってろ」 「いや、うん、平気。呆けてた」 「呆けてただ? 頭使えよ。握り飯にワカメのインスタント味噌汁だ。これくらいならソラでも計算できるだろ。呆けた頭動かして、先にインスリン打っておけ」  目ざとくシンク下の棚から焼き海苔缶とインスタントの味噌汁を見つけた織部が言う。  言われた通りインスリンを打って待っていると、すぐに海苔の巻かれたおにぎりと湯気が立ちあがったワカメの味噌汁が運ばれてきた。 「食え」  そう言われて、少しばかり感動してしまう。誰かに食事の準備をしてもらうのはいつぶりだろう。 「いただきます」  正直、何かを食べたい気分ではなかったが、お味噌汁の匂いを嗅いだら食欲が沸いてきた。  思えば、遅い朝ごはんを食べてからまともな食事をしていなかったことに気づく。  気が付けば時刻は二十一時半を回っていた。  あむ、っと一口おにぎりをかじってお味噌汁をズズーッと啜る。  美味しい――…。味噌汁の温かさが全細胞に染みわたる。  いつもは義務的に頬張るだけの食事が、なんてことのない献立なのに、今晩はとても美味しく感じた。  隣で頬杖をつきながら、しばらく食事をする由汰を黙って眺めていた織部がおもむろに口を開く。 「どうしてこうなった?」  どうしてって? 「なにが?」 「なぜ気を失うことになったかって訊いてるんだ」  それについては話すとなかなか長いのだが。  味噌汁を啜りながらどうかいつまんで話そうか思案する。  最後の一口を頬張ってご馳走さまでした、と手だけ合わせて皿にお椀を重ねる。 「僕もつい今朝知ったばかりなんだけど、夏の気温差がどうも血糖値を大きく狂わすみたいなんだ。今朝もそれで体調が悪くて初めて寝過ごした――というか、目が覚めなかった。いや、最終的には目覚めたけど」  と、肩を冗談ぽく竦ませた由汰に、織部のこめかみがぴくぴくと痙攣する。  冗談にしてはいけなかったような空気が流れて、気まずさからお椀を指でいじりだす。 「まあ、で、まあその、友禅展から戻ったあとも色々あって」  そこでチラっと織部を覗き見るが、黙って先を促すように口を引き結んでいる。 「家に着いた時、戸口にいたんだ」 「なにが」 「人だよ」  織部の目が何かを察したように見開かれる。 「いつかみたいに戸口で誰かが中を覗いてた」  この先を言えば、おそらく怒られると感じるのはなぜだろう。 「体調もすこぶる悪かったけど、それ以上に今日の僕はイライラしていてね。気づいた時には戸口を飛び出して追いかけてたよ」  ダンッ――! と物凄い音をたてて織部がちゃぶ台を拳で叩いた。  怒られるとは思っていたが、想像以上で内心驚く。 「お前は馬鹿か!」  目を吊り上げて織部が怒鳴る。 「そこまで怒ること?」 「くそっ」  と、悪態をついて短く刈られた髪を掻きむしると怒りを鎮めようと一呼吸おく。 「怪しい奴を見かけたらまず警察に連絡しろ。俺にでもいい」 「あんたにはもう何度かかけてふられてる」  それについては織部は謝るつもりはないらしく無言でやり過ごした。 「それに、心配するようなことは何もなかったよ。逃げた男の正体は刑事事件を好む粋狂なマニアだった」  すごく人の良さそうなね、と付け加える。 「あんたも言ってたろう?」そう言っても、織部はまだ低く呻っていた。  相手が誰であろうと、追いかけたことに怒っているらしい。 「とにかく、次からはこんな馬鹿な真似はやめるんだ」  はいはい、刑事さん。とは素直に言えなかった。  なぜかって、明確だ。朝からイライラすることになったのは誰のせい?   織部が知る由もないが、もっと言えば織部にはなんの罪もないが、由汰の苛立ちを助長させる原因になったのは紛れもなく織部だ。  不意打ちのようなジャンとの会合も。思い通りにならない体調の悪さも。  内に籠ったやり場のない怒りを、覗き魔に向けたのはそんなに悪いことだったか? 「とにかく、僕がぶっ倒れるまで低血糖になったのは、強いて言うなら彼を追いかけるために全速力で走ったからだよ」  糖尿病の患者には、適度な運動は血糖値を下げることから医師からも推奨されている。  けれど、由汰は極端に血圧のあがるような運動をすると、著しく血糖値が下がる傾向があった。運動不足を解消しようと以前踏み台昇降を二十分やったらふらついて倒れたのだ。  そのことを説明すると、ふたたび織部の三白眼がみるみる吊り上がっていく。

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