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ああ、また雷が落ちる、と思って覚悟していたが、そうはならなかった。
「自己管理の無さにも程があるぞ」
そう言っただけで、それ以上のお咎めは無し。
声音からして怒っているのは間違いないようだったが、怒鳴らなかったのは万全でない由汰の体調を気遣ってくれているような気がした。
一日のうちに血糖値の上下運動が激しかったためか、目が覚めた今でも体はぐったりと疲れ切っていた。
そもそもどうして織部はうちにいるのだろう。
そんな初歩的な疑問が頭に沸いたが、織部は山田につて先を促した。もう怒りは感じられない。
「そいつから何を聞いた?」
「今朝のニュースと同じようなことを」
それから、ニュースでは語られなかったことについてもあれこれ聞いた、と織部に言おうか悩んだが、山田を追及されてせっかくの情報源を失うのは惜しいと、由汰は口をつぐんだ。
最大限の努力でもって平静を取り繕って、成功したものだと思ったが、織部の目を見れば、由汰が隠し事をしているなどお見通しのようにも見えた。
突っ込まれるより先に話の矛先を変える。
「それより、家宅捜査の結果はもうでたんだろう? 僕に教えてはくれないの?」
「機密事項だ」
「ニュースでのこと嘘をついてたのに? なんの謝罪もなしか?」
どうにか優位に立ちたくて織部を詰る。
「お前に嘘をついたことについては謝るつもりはない」
と、きっぱり言い切られてしまう。
「家宅捜査の結果がでるまで、捜査状況をあの時点で明かすわけにはいかなかった」
確かにそうだろう。由汰を容疑者だと疑っていたなら尚更だ。
真意を確かめるために、由汰を敢えて挑発したのだろうから。
織部が、ホモフォビアなのは本当だろうけども。
初対面の時に感じた傲慢で不遜なイメージは、今ではもうほとんど感じないが。
まして、あんな子煩悩な父親の顔を見てしまった後では尚更だ。
この男とはまだ数回しか会っていないのに、見た目と違ってなかなかに如才無いと由汰は思う。
「じゃあ、裏庭から二人が出て行ったってことは、間違いないって思っていいのか」
「どう思う?」
問いながら向けてくる目は、まぎれもなく刑事の目だった。
その目をまだ由汰に向けるのか。急に気分が落ち込んで、不機嫌さを顔面に晒す。
「何度言わせるんだ。僕は無実だよ、完全にね」
「十中八九そうだろうな、だが」
と、そこでらしくもなく言い淀む。
「なに」
「お前」
何か重要なことを言いたげに、三白眼が無言のまま由汰を伺ってくる。
何度か開きかけた口を閉じて、結局ちゃぶ台の空になったお椀と箸を持って立ちあがった。
「なんなんだよ、言ってくれ」
由汰も一緒になって立ちあがる。
「あれこれ訊くのはやめろと言ったはずだ」
「教えられることがあれば教えるって言ってくれたよね」
「そんなに知りたいか。家宅捜査の結果を」
「当たり前だ」
「なら教えてやる。彼らが裏庭から出て行ったのはほぼ確実だろう。いや、確実だ」
「そうなのか」
ぱっとか開きかけた由汰の目を見て、しかし、と言い置いた。
「お前が関わっていないとは、まだ言い切れない」
安堵に開きかけた目が再び曇る。
「今回は初めて防犯カメラに映っていた重要なケースだ。それもお前の店から出てきた形跡がないって言うおまけ付きでな」
「けど、僕は何もしてない」
「だが、あの日はお前をみんなが疑っていた。あの夜、捜査官たちが揃ってこの家の周りを取り固めていたことはさすがに知らないだろう。あの時点では令状が下りてなかったから一晩見張りをつけて、翌日令状をもって出直したんだ」
そこまで大捕り物劇さながらな状態だったと?
「知っての通り、光音・エメリーがまだ見つかっていない。生きている可能性があると踏んで今回情報公開を試みた」
――今回。
さっきも今回は初めて防犯カメラに映ったケースだった、と言っていた。
今回はとは、つまり今回が初めての、つまりは単発の事件ではないと言うことか。
「連続殺人ってこと?」
織部の顔が苦々しく歪む。余計なことまで言ってしまったと言うように。
色々確認しなければいけないことが、思う以上に多い気がした。
「今日はどうしてここに? 僕を見張るのにまだ飽き足らないのか」
織部の手から、そっと空になったお椀と箸を取り上げる。
「借りたものを返しにきた」
貸したものなどあっただろうか。
「懐中電灯だ、この間の」
「…………」
ひょいっと織部がスラックスのポケットから手のひらサイズの懐中電灯を取り出すと、由汰に手渡した。
手渡したついでに、空になったお椀と箸を由汰から再び取り上げる。
青光りした柄の先に紐のついた、それは紛れもない由汰の懐中電灯だった。
電球を探しに中二階へ行く織部に手渡した懐中電灯だ。
どうしてそんなものを――そう言えば、あの時電球だけ受け取って、懐中電灯を受け取った記憶がない。
視線をぐるっと一周させて頭を働かせていると、不意にはたと気がついた。
――そういう事か!
またもしてもやられた。由汰をまんまと騙したのだ。この男は飄々と中二階に興味を持つようなふりをして。
顔を蒸気させた由汰を見て、詫びるような態度など欠片も無く、口端に揶揄うような笑みを浮かべる。
そんな仕草さえ様になって格好良いなんて口が裂けても言うまい。
「僕の指紋を勝手に採取したな!」
「悪いな。だがな、これで遺体や戸口、裏庭の鉄扉にベタベタついていた指紋がお前のものじゃないと判明した。おかげで、被害者が裏庭から出て行ったと確認できたんだ」
「感謝しろって?」
「いや。だが、年甲斐もなく怖がりなお前に代わって中二階に電球を探しに行ったのは、純然たる善意からだ。それについては感謝してくれていい」
「はっ、よく言う。それに僕は――」
怖がりじゃないと言いかけて、それを事実否定しきれなかった。
その反応を楽しむようにくぐもった声で笑うと、織部は空の椀と箸を持って台所へと向かう。
文句の一つも言いたかったが、その前に、洗い物まで織部にやらせる訳にはいかないと、
とっとと流しに持って行ってしまう織部を追いかける。
歩き出したときに少しふらついたけど、体調はだいぶ良くなっているのが分かる。
「洗い物くらい自分でやれるよ」
ずり落ちかけた袖を捲りなおしていると、不意に隣からぬっと目の前に手が伸びてきた。
「なに……」
気づいた時には前髪を大きな手で掻き上げられていた。
柔らかい猫っ毛を掴んだまま上を向かせられる。
トクンと鼓動が跳ねた。
驚いて目を瞠っていると、一瞬思いつめたように細められた織部の目が手を放すと同時に逸らされる。
「いいとは言えないが、顔色も随分戻って来たな。風呂には入れそうか?」
「風呂?」
「俺がいる間に入って来い」
その一言ではっとする。
慌てて時計を見た。時刻は二十二時ちょうど。
流しでお椀を洗おうとスポンジに洗剤を付け始めた織部の腕を引っ張った。
「なんだ。さっさと入って来い。今日はずっとは居てやれないんだ」
と、言ってくる。
そんなこと、言われなくても分かっているし、そこまで求めはしない。
少し悲しくなったけど、辛うじておくびに出さずにすんだ。
「迷惑かけて本当に悪かったし感謝してる。だから、もう充分だよ、織部さん」
「そう思うなら早く入って来い」
「もう帰っていいって言ってるんだ。いつまでもここに居る必要はないよ」
本心だ。素直な気持ちから出た言葉だった。
洗い物を代わろうと腕を伸ばす由汰を、蛇口をいったん止めた織部が訝しむような視線で見下ろしてくる。
「何か勘違いしてないか、お前」
「なにが?」
言われたことが分らず、キョトン顔で隣に立つ織部を覗き込めば、溜息交じりに織部が小さく肩を竦ませた。
蛇口をひねって水を出すと、再びお椀を洗い出す。
「一年前に離婚している」
「…………」
「今日は月に一度の娘との面会の日だった」
「そう、だったのか」
「ああ。そのせいで今日はこれから朝まで当直だ」
寝ずに明日の朝まで仕事。
しかも、由汰のせいでいらん労力まで使わせてしまった。
「気にするな。署には遅れるって連絡済だ」
倒れた人間を放置などして帰ったら刑事が廃るだろうと笑う。
織部は大人だ。そのうえ、見た目以上に辛抱強い。
先ほどまで少し言い合いになっていたのに、それを長くは引きずらない。
「少しでも詫びる気持ちがあるなら早く風呂に入って来い。口うるさい医者から言われているんでな。せめてお前が食後二時間後の血糖値を測るまで傍に居ろってな」
口うるさい医者とは、おそらく救命処置の教えを乞うた友人のこと。
知らなかったとは言え、家族の待つ家へ帰れと、そんなニュアンスを含んだ言い方をしてしまった。
不謹慎だったかな、と僅かに後悔する。
一年前に離婚をして、帰る家は寂しい一人暮らしの家なのだと、お前が想像しているようなものではないと、暗に言わせてしまったようなものだ。
体裁をなによりも気にする男に、言わなくていいことを言わせてしまった。
風呂から上がって居間へ行くと、織部の姿がない。
寝室へ行けば、織部がちょうど屈んだ状態から腰を上げるところだった。
「なにしてるの」
「ベッドメイキングだ」
「ベッドメイキング? ――取り込んでくれたの?!」
驚いていると、織部が可笑しそうに笑う。
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