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第2話

ピピピ ピピピ 間抜けな電子音のおかげで目を覚ます。 僕は目を擦りながら、枕元のアラームを止めた。 見慣れぬ天井に一瞬たじろいたが、すぐに思い出す。ここは昨日から利用してるホテルだと。 数時間前の夢のような出来事に想いを馳せる。しかし、それが夢ではない証拠が部屋中にあった。 ゴミ箱に捨てられたコンドーム 汗ばむ肌と妙にだるい体 そして枕元の置き手紙 『今日はありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。ズオより』 白い紙に書かれた拙い文字。 それを読んでつい口元が緩む。 端正な顔に似合わず、可愛い字を書くんだな。 僕は床に落ちている服を集め、シャワールームへ向かった。 寝ぼけた頭には熱いシャワーがピッタリだ。 濡れた体をタオルで拭きながら、鏡の前に立つ。少しうねった茶色の髪を撫でた。 目立った寝癖も無いのでそのままにしておく。歯を磨き、髭を剃れば朝の準備は完璧だ。 部屋を見渡し、忘れ物がないか確認する。 「いけない。あれを忘れてた」 サイドテーブルに置き忘れた"あれ"を取り、出口へのドアを開けた。 エレベーターでエントランスまで降りた。くたびれたソファと枯れた観葉植物。殺風景なホテルの顔。 そんなエントランスを横目に、僕はガラスドア越しに外を眺めた。 「今日は着けた方が良さそうだな」 僕は手首にかけていたガスマスクを着けた。 外に出ると周りは真っ白だった。自分の手のシワを確認できないほど視界が悪い。 曖昧になった距離感を探るように、僕はゆっくりと歩いた。 この街は便利な代わりに空気がすこぶる悪い。 街を包む汚れた霧。海岸沿いの工場地帯のせいだと新聞で読んだ。 マスク無しで外出すると一瞬で目が痛み、涙目になる。続いて喉と鼻がヒリヒリと痛み呼吸しづらくなる。 人によっては病気になってしまうそうだ。 だからここで暮らす人間にとってガスマスクは必需品だ。 こういう、特に視界が悪い日は祖父を思い出す。 祖父はよく僕に、昔の話を教えてくれた。 彼が若かった頃はこの街は空気が綺麗で、日常的に青空を見ることができたそうだ。 煙をあげる工場なんて無く、みんなマスク無しで生活していたらしい。 「便利になった代わりに住みづらくなるなんてな」そう言う祖父の苦笑いが懐かしい。 もっと昔に生まれていたら、簡単にお互いの顔を知れたのだろうか。 皆、顔をすっぽり包むガスマスクを着けている。マスクは大気汚染から身を守れるが、お互いの表情が見えない。 そのせいか「長い付き合いなのにお互いの顔を知らない」なんてことがよくある。 僕たちは人を声で認識するしかないのだ。 そんな街だから、身元を隠している娼夫が声を出そうとしないのは当たり前だ。 ふとズオを思い浮かべた。 彼はどんな声で話すのだろう、と。 自分でも驚いた。 僕は何人もの娼夫と夜を過ごしたが、「声を聞きたい」なんて考えたのは初めてだ。 ズオの暗く、青い目を再び思い出す。 ホテル街から自宅までわずか1キロほど。 ゆっくりと歩いてもそんなに時間はかからない。 霧を掻き分けるように歩いていると、足に何かがぶつかった。 僕は驚き、歩みを止めた。 下を見ると、道に何かが転がっていた。ゴミにしては大きすぎる。 白い霧とマスクのレンズのせいでよく見えない。しゃがんで確認する。 そこで僕は再び驚くことになった。 なんとそれは人だった。うつ伏せ姿で倒れている。 体格からして成人男性だろうか。 彼はピクリとも動かなかった。生きているのか死んでいるのかハッキリしない。 「大丈夫ですか!?」 彼の顔の近くで呼びかける。 僕の声に反応したのか、微かに呻き声が聞こえる。 肩を抱き、顔を確認しようとした。しかし濃い霧とマスクのせいで分からない。 よく見ると彼のマスクのレンズは割れていて、空気洗浄の機能を果たしていなかった。壊れている。 僕は彼を抱き上げ、すぐ近くにある自宅へ向かった。 彼は時折、苦しそうに咳き込んだ。長い時間こうして倒れていたようだ。 なるべく早く綺麗な空気を吸わせてあげたい。 玄関のドアを蹴るように開け、二階へ登る。 そして咳き込む彼をベッドに寝かせた。 家に入っても、彼の呼吸は乱れたままだ。 「これを代わりに着けて」 僕はマスクを外し、彼に渡す。 「ちょっと待ってて」 そう言い残し、僕は一階へ向かった。 彼の体調が少しでも良くなるように、何が必要か考えながら。

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