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第3話

肩に軽い刺激を感じ、眠りから覚める。 欠伸をしながら瞼を開けると、目の前に見知らぬ人間がいた。タコのようなマスクを着けた男。 驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。 一瞬身構えるが、すぐに思い出した。 そうだ。今朝ベッドに彼を寝かせた後、僕は寝落ちしてしまったんだっけ。 「もう起き上がって大丈夫なの?」 椅子から立ち上がり、口の端についた涎を拭いながら尋ねる。 「あ、驚かせてしまってごめんなさい。もう平気です」 僕を見上げるように言った。 低く、落ち着いた声。マスクのせいで少しくぐもっているが。 「今朝、家の前で倒れていたからビックリしたよ。でも元気そうで安心した」 「助けてくれてありがとうございました。…あっ、俺の名前はユウです。言うの遅れました」 少したどたどしい敬語。マスクで顔は見えないが、彼が緊張していることが伝わってくる。 「そんなに改まらなくてもいいよ。僕はオルト」 手を差し伸べる。彼は恐る恐るといった様子で僕の手を握った。冷たく、柔らかな手だった。 「君のマスク、だいぶ劣化してたよ。修理は難しいかもしれない」 「そうですか。そうなると買い替え……ハァ…」 ユウはガックリと肩を落とした。そしてうつむきながら続ける。 「マスクの値段って高いですよね」 もしかしたら彼は経済的な余裕がないのかもしれない。よく見ると、彼の衣服は年季が入っていた。細かい傷だらけのブーツに、穴の空いたジーンズ。 それを見て、僕は考えるよりも先に言葉にしていた。 「そのマスク、サイズがピッタリだから君にあげるよ」 「…えっ、申し訳ないですよ。助けてもらった上にそこまでは」 僕はマスクの一つや二つ、譲っても全然構わないと思った。金なんていらない。 見返りやメリットを求めているわけではないからだ。 しかし、彼の気持ちは分かる。 もし僕がユウのような状況になったら、 「無償でここまでしてもらうのは申し訳ない。相手に金や代償を払った方が気が楽だ」そんな風に考えてしまうだろう。 そこで僕はこんな提案をした。 「お金はいらないよ。でも、もし君が良ければ手伝って欲しいことがあるんだ」 「何でもしますよ。言ってください」 僕は手元にある、ユウの壊れたマスクを見ながら言った。 「僕の店でアルバイトして欲しいな。一人だと手が回らなくて」 「オルトさんはお店を持ってるんですね。バイトの経験は割とあるので頑張ります」 「頼もしいなあ。詳しいことは一階で話そうか」 僕たちは部屋を出て階段を降りた。 裏口から外に出て、路地裏から大通りへ出る。 「何で外に出たんですか?」 「すぐに分かるよ」 僕の家は商店街にある。普段は賑わっているが、今は買い物にしては遅い時間なので人気は少なかった。 今朝ユウが倒れていた場所まで着いた。確か彼は、僕の店と隣の店の間で倒れていたっけ。 僕は閉ざされたシャッターを持ち上げる。 「こんなところに店があったんですね。さっきは気づかなかった」 ユウは驚いたように言った。 ガラガラと重い音を立てながらシャッターはゆっくりと上がった。 ポケットから鍵を出し、ガラスドアを開ける。 「ここが僕の店だよ」 ドアから少し離れた場所にカウンターがあり、その奥には作業スペースがある。 木製の作業台の上には使い込んだ道具。壁には様々な種類のガスマスクがかけてある。 「うわあ凄いですね。小さな工房みたいだ。…オルトさんって何してる人なんですか?」 「ガスマスクの修理をしてるんだ。今日は定休日だけど」 ユウは店に入ると、壁に近寄った。 「こんなにマスクが並んでるの見たことない」 少しはしゃいだ様子のユウに、思わず口角が上がる。 「気に入ってもらえて良かった。じゃあバイトの説明をするね」 「お願いします」 「僕は奥で作業をしてると、来店したお客さんに気づけないことがあるんだ。だから君には接客をして欲しい」 「俺、接客は得意です。…でも」 「どうしたの?」 「実は俺、室内でもマスク外せないんです。 昔からこの辺が弱くて…」 ユウは胸のあたりを指差す。 僕はユウのマスクのレンズを見ながら言った。 「全然大丈夫だよ。そんなの関係ない。お客さんにもそういう人いるし」 これは本当だ。屋内でもマスクを手放せない人は一定数いる。 「ありがとうございます。…そうだ、いつから始めますか?俺はいつでも空いてます」 「店は明日からまた始まるよ。それじゃあ改めてよろしくね」 「はいっ」 ユウは深く頭を下げた。 そこで僕は少し困ってしまった。こうして誰かに頭を下げられることに慣れていないし、人を雇ったことはない。なんだか調子が狂ってしまう。 「これからはタメ口でいいよ。僕も君のことをユウって呼ぶから。そっちの方が楽かな」 「分かりました…じゃなくて分かった。俺はあなたのことを何と呼べばいい?」 「オルトでいい。明日からよろしくね」 再び手を差し伸べる。しっかりとユウの手を握った。 さっきより、彼の手は少し暖かかった。

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