3 / 16
第3話
肩に軽い刺激を感じ、眠りから覚める。
欠伸をしながら瞼を開けると、目の前に見知らぬ人間がいた。タコのようなマスクを着けた男。
驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。
一瞬身構えるが、すぐに思い出した。
そうだ。今朝ベッドに彼を寝かせた後、僕は寝落ちしてしまったんだっけ。
「もう起き上がって大丈夫なの?」
椅子から立ち上がり、口の端についた涎を拭いながら尋ねる。
「あ、驚かせてしまってごめんなさい。もう平気です」
僕を見上げるように言った。
低く、落ち着いた声。マスクのせいで少しくぐもっているが。
「今朝、家の前で倒れていたからビックリしたよ。でも元気そうで安心した」
「助けてくれてありがとうございました。…あっ、俺の名前はユウです。言うの遅れました」
少したどたどしい敬語。マスクで顔は見えないが、彼が緊張していることが伝わってくる。
「そんなに改まらなくてもいいよ。僕はオルト」
手を差し伸べる。彼は恐る恐るといった様子で僕の手を握った。冷たく、柔らかな手だった。
「君のマスク、だいぶ劣化してたよ。修理は難しいかもしれない」
「そうですか。そうなると買い替え……ハァ…」
ユウはガックリと肩を落とした。そしてうつむきながら続ける。
「マスクの値段って高いですよね」
もしかしたら彼は経済的な余裕がないのかもしれない。よく見ると、彼の衣服は年季が入っていた。細かい傷だらけのブーツに、穴の空いたジーンズ。
それを見て、僕は考えるよりも先に言葉にしていた。
「そのマスク、サイズがピッタリだから君にあげるよ」
「…えっ、申し訳ないですよ。助けてもらった上にそこまでは」
僕はマスクの一つや二つ、譲っても全然構わないと思った。金なんていらない。
見返りやメリットを求めているわけではないからだ。
しかし、彼の気持ちは分かる。
もし僕がユウのような状況になったら、
「無償でここまでしてもらうのは申し訳ない。相手に金や代償を払った方が気が楽だ」そんな風に考えてしまうだろう。
そこで僕はこんな提案をした。
「お金はいらないよ。でも、もし君が良ければ手伝って欲しいことがあるんだ」
「何でもしますよ。言ってください」
僕は手元にある、ユウの壊れたマスクを見ながら言った。
「僕の店でアルバイトして欲しいな。一人だと手が回らなくて」
「オルトさんはお店を持ってるんですね。バイトの経験は割とあるので頑張ります」
「頼もしいなあ。詳しいことは一階で話そうか」
僕たちは部屋を出て階段を降りた。
裏口から外に出て、路地裏から大通りへ出る。
「何で外に出たんですか?」
「すぐに分かるよ」
僕の家は商店街にある。普段は賑わっているが、今は買い物にしては遅い時間なので人気は少なかった。
今朝ユウが倒れていた場所まで着いた。確か彼は、僕の店と隣の店の間で倒れていたっけ。
僕は閉ざされたシャッターを持ち上げる。
「こんなところに店があったんですね。さっきは気づかなかった」
ユウは驚いたように言った。
ガラガラと重い音を立てながらシャッターはゆっくりと上がった。
ポケットから鍵を出し、ガラスドアを開ける。
「ここが僕の店だよ」
ドアから少し離れた場所にカウンターがあり、その奥には作業スペースがある。
木製の作業台の上には使い込んだ道具。壁には様々な種類のガスマスクがかけてある。
「うわあ凄いですね。小さな工房みたいだ。…オルトさんって何してる人なんですか?」
「ガスマスクの修理をしてるんだ。今日は定休日だけど」
ユウは店に入ると、壁に近寄った。
「こんなにマスクが並んでるの見たことない」
少しはしゃいだ様子のユウに、思わず口角が上がる。
「気に入ってもらえて良かった。じゃあバイトの説明をするね」
「お願いします」
「僕は奥で作業をしてると、来店したお客さんに気づけないことがあるんだ。だから君には接客をして欲しい」
「俺、接客は得意です。…でも」
「どうしたの?」
「実は俺、室内でもマスク外せないんです。
昔からこの辺が弱くて…」
ユウは胸のあたりを指差す。
僕はユウのマスクのレンズを見ながら言った。
「全然大丈夫だよ。そんなの関係ない。お客さんにもそういう人いるし」
これは本当だ。屋内でもマスクを手放せない人は一定数いる。
「ありがとうございます。…そうだ、いつから始めますか?俺はいつでも空いてます」
「店は明日からまた始まるよ。それじゃあ改めてよろしくね」
「はいっ」
ユウは深く頭を下げた。
そこで僕は少し困ってしまった。こうして誰かに頭を下げられることに慣れていないし、人を雇ったことはない。なんだか調子が狂ってしまう。
「これからはタメ口でいいよ。僕も君のことをユウって呼ぶから。そっちの方が楽かな」
「分かりました…じゃなくて分かった。俺はあなたのことを何と呼べばいい?」
「オルトでいい。明日からよろしくね」
再び手を差し伸べる。しっかりとユウの手を握った。
さっきより、彼の手は少し暖かかった。
ともだちにシェアしよう!