8 / 16
第8話
今日の仕事がようやく終わった。
珍しく、修理に丸一日かけてしまった。今や使い古されたマスクは、新品同様だ。
下を向いていた首を無理やり上げると、首の筋が急に伸びるので、痛気持ちいい。
しかし、肩の重さは昨日より悪化していた。
僕は集中していると、耳に音が全く届かない。
そのせいか、僕は外の天気がすっかり変わっていることに気づかなかった。
外から、さあっと砂のような音がする。
雨が降っていた。室内の空気が、しっとりと濡れている感じがする。
時々風が吹くのか、水滴が窓を叩く。
「オルト、修理は終わったのか」
カウンターの向こうからユウの声がする。
椅子から離れ、作業スペースから出ると、ユウがソファーに座っているのが見えた。
「終わったよ。でも、もうこんな時間か…今日はもう店を閉めちゃおうかな」
僕はそう言いながら、ガラスドアに掛けてある看板を裏返した。openからclosedに変えてしまえば、今日の勤務は終了だ。
「お疲れ様。あ、そうだ。前借りた本、全部読み終わったからまた新しいのを選んでもいいか?」
「もちろんだよ。しかし、随分と読むペースが早くなったね。もう書庫の本、半分読んじゃったんじゃないの」
ユウは呆れたように、ため息をつきながら言った。
「大袈裟だな。まだそんなに借りてない」
「久しぶりに読み直したい本もあるし、僕もついて行こうかな」
ソファーから立ち上がるユウを見て、僕はあることに気づいた。
「ユウの服装、お洒落だね。いつもと違って大人っぽい」
「今更かよ。もう夕方だぞ。…まあ、今日のオルトは一日中、奥に篭りっぱなしだったからな」
ユウの言う通り、僕はずっと作業をしていた。だから今日はこんなにゆっくり話せなかったのだ。
普段のユウはパーカーやトレーナーといった、カジュアルな服装が多い。
しかし、今日は違う。
黒いタートルネックを着ていた。ユウのスラっとした首によく合っている。
「イメージチェンジ?似合ってるよ」
「違う、今日はいつもより肌寒かったからな。深い意味はないけど」
以前の僕なら、"人の服装を褒める"なんて行為をしなかっただろう。友人が髪を切っても気づけないことの方が多かったこともある。
やはり僕は、ユウに会ってから色々と変わったのだろうか。
ぼんやりと考えていた僕は、ユウがドアを開ける音にハッとさせられた。
「やっぱり疲れてるだろ」
「そんなことないよ」アクビを堪えながら言う。
埃とカビの臭いがする書庫に入った。いつ来ても、この部屋は薄暗くて散らかっている。
ユウは早足で本棚に近寄った。早く本を読みたくてたまらないのだろう。
改めて見ると、祖父の本棚は大きい。
壁を覆うように鎮座するそれは、暗い部屋の雰囲気をさらに重苦しくしているようだった。
端から端まで年季の入った本がぎっしり詰まっている。
きっとユウの身長では、上の段まで届かないだろう。
案の定、そうだった。
ユウは背伸びをして、上から二番目の段に入った本を取ろうとしているのだが、苦戦していた。ふくらはぎをプルプルと震わせながら、必死に手を伸ばしている。
「ユウ、ぼくが取ろうか?」
「いい…。そろそろ取れる……っと」
ユウの指に文庫本が引っかかった。
「ほら、俺でも取れただろ」
満足そうな笑顔で、こちらを振り向くユウ。しかし背後の本棚は不穏な動きをしていた。
限界まで詰められた棚から本を一冊抜くと、連動するように、近くにある本まで一気に落ちてしまった経験はないだろうか。
まさに僕の目の前で、その現象が起きそうだった。
「危ない」
僕は咄嗟に駆け寄った。そしてユウを本棚から離すために腕を引き寄せる。
本はバサバサと重い音を立てて床に落ちた。
「間に合った」僕は安堵でため息を漏らす。しかし、それも束の間、勢い余ってバランスを崩してしまった。
このままでは、ユウが僕の下敷きになってしまう。
そう考えると、体が反射的に動いた。
右手はユウの後頭部に手を当て、左手で倒れた体を支えた。
着地した衝撃で左手が痺れる。
「…ごめん、大丈夫?痛くない?」
「平気だよ。助けてくれてありがとな」
僕がユウに覆い被さっているせいか、彼の顔がいつもより近くにある。
思えば、彼の顔をじっくり見る機会は無かったな。とはいえマスクに覆われているのだが。
マスクのレンズの奥に、ユウの目をわずかに確認できた。普段なら反射して見えない部分を、僕は思わず見つめてしまった。
深海のような、暗い青。
僕は何処かで、この青を見たような気がする。
外では、雨がざあっと音を立てて降り続けていた。
雨音が僕を埋め尽くす。
それはいつもより、大きく響いているような気がした。
ともだちにシェアしよう!