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第8話

今日の仕事がようやく終わった。 珍しく、修理に丸一日かけてしまった。今や使い古されたマスクは、新品同様だ。 下を向いていた首を無理やり上げると、首の筋が急に伸びるので、痛気持ちいい。 しかし、肩の重さは昨日より悪化していた。 僕は集中していると、耳に音が全く届かない。 そのせいか、僕は外の天気がすっかり変わっていることに気づかなかった。 外から、さあっと砂のような音がする。 雨が降っていた。室内の空気が、しっとりと濡れている感じがする。 時々風が吹くのか、水滴が窓を叩く。 「オルト、修理は終わったのか」 カウンターの向こうからユウの声がする。 椅子から離れ、作業スペースから出ると、ユウがソファーに座っているのが見えた。 「終わったよ。でも、もうこんな時間か…今日はもう店を閉めちゃおうかな」 僕はそう言いながら、ガラスドアに掛けてある看板を裏返した。openからclosedに変えてしまえば、今日の勤務は終了だ。 「お疲れ様。あ、そうだ。前借りた本、全部読み終わったからまた新しいのを選んでもいいか?」 「もちろんだよ。しかし、随分と読むペースが早くなったね。もう書庫の本、半分読んじゃったんじゃないの」 ユウは呆れたように、ため息をつきながら言った。 「大袈裟だな。まだそんなに借りてない」 「久しぶりに読み直したい本もあるし、僕もついて行こうかな」 ソファーから立ち上がるユウを見て、僕はあることに気づいた。 「ユウの服装、お洒落だね。いつもと違って大人っぽい」 「今更かよ。もう夕方だぞ。…まあ、今日のオルトは一日中、奥に篭りっぱなしだったからな」 ユウの言う通り、僕はずっと作業をしていた。だから今日はこんなにゆっくり話せなかったのだ。 普段のユウはパーカーやトレーナーといった、カジュアルな服装が多い。 しかし、今日は違う。 黒いタートルネックを着ていた。ユウのスラっとした首によく合っている。 「イメージチェンジ?似合ってるよ」 「違う、今日はいつもより肌寒かったからな。深い意味はないけど」 以前の僕なら、"人の服装を褒める"なんて行為をしなかっただろう。友人が髪を切っても気づけないことの方が多かったこともある。 やはり僕は、ユウに会ってから色々と変わったのだろうか。 ぼんやりと考えていた僕は、ユウがドアを開ける音にハッとさせられた。 「やっぱり疲れてるだろ」 「そんなことないよ」アクビを堪えながら言う。 埃とカビの臭いがする書庫に入った。いつ来ても、この部屋は薄暗くて散らかっている。 ユウは早足で本棚に近寄った。早く本を読みたくてたまらないのだろう。 改めて見ると、祖父の本棚は大きい。 壁を覆うように鎮座するそれは、暗い部屋の雰囲気をさらに重苦しくしているようだった。 端から端まで年季の入った本がぎっしり詰まっている。 きっとユウの身長では、上の段まで届かないだろう。 案の定、そうだった。 ユウは背伸びをして、上から二番目の段に入った本を取ろうとしているのだが、苦戦していた。ふくらはぎをプルプルと震わせながら、必死に手を伸ばしている。 「ユウ、ぼくが取ろうか?」 「いい…。そろそろ取れる……っと」 ユウの指に文庫本が引っかかった。 「ほら、俺でも取れただろ」 満足そうな笑顔で、こちらを振り向くユウ。しかし背後の本棚は不穏な動きをしていた。 限界まで詰められた棚から本を一冊抜くと、連動するように、近くにある本まで一気に落ちてしまった経験はないだろうか。 まさに僕の目の前で、その現象が起きそうだった。 「危ない」 僕は咄嗟に駆け寄った。そしてユウを本棚から離すために腕を引き寄せる。 本はバサバサと重い音を立てて床に落ちた。 「間に合った」僕は安堵でため息を漏らす。しかし、それも束の間、勢い余ってバランスを崩してしまった。 このままでは、ユウが僕の下敷きになってしまう。 そう考えると、体が反射的に動いた。 右手はユウの後頭部に手を当て、左手で倒れた体を支えた。 着地した衝撃で左手が痺れる。 「…ごめん、大丈夫?痛くない?」 「平気だよ。助けてくれてありがとな」 僕がユウに覆い被さっているせいか、彼の顔がいつもより近くにある。 思えば、彼の顔をじっくり見る機会は無かったな。とはいえマスクに覆われているのだが。 マスクのレンズの奥に、ユウの目をわずかに確認できた。普段なら反射して見えない部分を、僕は思わず見つめてしまった。 深海のような、暗い青。 僕は何処かで、この青を見たような気がする。 外では、雨がざあっと音を立てて降り続けていた。 雨音が僕を埋め尽くす。 それはいつもより、大きく響いているような気がした。

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