11 / 16
第11話
次の日、ユウは現れなかった。
あの店に電話をしたが、彼は昨日から長期休暇を取ったらしい。暫く指名は出来ないと言われてしまった。
朝から強い雨が降っているせいか、客は全く来ない。一人で昼食を済ませた後も、ドアベルが鳴ることはなかった。
いつもなら店内に自分以外の人間がいることに慣れていたせいか、酷く静かに感じる。
作業中、手元が狂って指を切った。
ぼんやりと集中せずに、考え事をしていたせいだ。アッと気づいた時には遅く、指先に赤い粒が滴っていた。
大した傷ではなさそうだが、念のため消毒しようと、席を立った。
台所に行き、そこに置いてある救急箱を開ける。中には期限の切れた風邪薬や使いかけの絆創膏が入っている。
何故か消毒液が見当たらなかった。小さな箱なのに、失くしようがない。
僕は怪我をしてない方の手で箱をかき混ぜた。
お目当ての物は奥で眠っていた。やっと見つけたことで気が緩んだのか、僕は箱の中身をぶちまけてしまった。
血が付着しないように散乱した物を拾っていると、僕は発見してしまったのだ。
使いかけのテーピングテープを。
強く握りしめたせいで、テープに赤い指紋が付いた。
─僕は何をしていたんだろう。
閉店まで数時間あったがそんなことは関係ない。
指先の痛みを忘れ、店を飛び出す。僕は傘も差さずに、街を駆けた。
二人で肩を組んで歩いた時、三十分かけた距離は、走ってしまえば十分で済む。
錆びて重そうなドアが並ぶアパートの一番奥の部屋に、彼は住んでいるはずだ。
ドアをノックしても反応はない。期待していなかったので、さほど落ち込まなかった。
「僕はここで待っているから」
冷たい扉に話しかけ、背中を預けた。
コンクリートの床は固く、体温が一瞬で奪われる。尻の痛みを感じながら、振り続ける雨を眺めた。
廊下に屋根はあるが、強い雨風は容赦なく吹き込む。時々、ズボンや顔が濡れたが、立ち上がって帰る気は湧かなかった。
雨は代わり映えせず、退屈だ。
僕は指先の固まった血を見つめる。さっきまであんなに赤かった血は、もう黒い。
「そこで何してるの?」
隣から急に声をかけられ、飛び上がる。
首を横に向くと、両手に袋を下げた女性が僕を見下ろしていた。ガスマスクのレンズに僕が映っている。三角座りをした、間抜けな男。
彼女はこのアパートの住民だろうか。慌てて立ち上がりながら説明する。
「すみません。人を待っていただけです」
「ずっと座っていたのね。寒くないの?」
「平気ですよ」
嘘だ。尻と腰が痛くて、立っているのがやっとだ。
「それならいいけど。……でもね」
彼女はポケットから鍵を出しながら言った。
「そこの部屋の人、滅多に帰ってこないわよ。ずっと隣に住んでいるけど、会ったことないもの」
「そうなんですか。…教えてくださり、ありがとうございます」
僕は一礼し、たった十分の距離を、一時間かけて歩いた。
雨に濡れた服は水を含んで重くなり、髪は肌に張り付いている。それでもしっかり前を向いて歩けなかった。
これほど自分が嫌になった日は無い。
僕はあれほど好きだった人のことを、何も知らなかったのだから。
顔や住む場所は勿論、彼の抱えていた傷。
彼の苦しみや悩みに、気づくことも出来なかった。
「綺麗な文字や言葉を勉強したい」と言いながら、本を読むユウ
「褒めてもらえて嬉しい」と笑ったズオ
「俺なんかの為に」と吐き捨てるように言ったユウ
「自分は汚れている」と泣いたズオ
「失望しただろう」と呟いた彼
どんな気持ちで言ったのだろう。
これが小説だったら、書いてあるのに。
何も分からない。そして気づけない。
僕は彼のことを、何一つ知らなかったんだ。
ともだちにシェアしよう!