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第11話

次の日、ユウは現れなかった。 あの店に電話をしたが、彼は昨日から長期休暇を取ったらしい。暫く指名は出来ないと言われてしまった。 朝から強い雨が降っているせいか、客は全く来ない。一人で昼食を済ませた後も、ドアベルが鳴ることはなかった。 いつもなら店内に自分以外の人間がいることに慣れていたせいか、酷く静かに感じる。 作業中、手元が狂って指を切った。 ぼんやりと集中せずに、考え事をしていたせいだ。アッと気づいた時には遅く、指先に赤い粒が滴っていた。 大した傷ではなさそうだが、念のため消毒しようと、席を立った。 台所に行き、そこに置いてある救急箱を開ける。中には期限の切れた風邪薬や使いかけの絆創膏が入っている。 何故か消毒液が見当たらなかった。小さな箱なのに、失くしようがない。 僕は怪我をしてない方の手で箱をかき混ぜた。 お目当ての物は奥で眠っていた。やっと見つけたことで気が緩んだのか、僕は箱の中身をぶちまけてしまった。 血が付着しないように散乱した物を拾っていると、僕は発見してしまったのだ。 使いかけのテーピングテープを。 強く握りしめたせいで、テープに赤い指紋が付いた。 ─僕は何をしていたんだろう。 閉店まで数時間あったがそんなことは関係ない。 指先の痛みを忘れ、店を飛び出す。僕は傘も差さずに、街を駆けた。 二人で肩を組んで歩いた時、三十分かけた距離は、走ってしまえば十分で済む。 錆びて重そうなドアが並ぶアパートの一番奥の部屋に、彼は住んでいるはずだ。 ドアをノックしても反応はない。期待していなかったので、さほど落ち込まなかった。 「僕はここで待っているから」 冷たい扉に話しかけ、背中を預けた。 コンクリートの床は固く、体温が一瞬で奪われる。尻の痛みを感じながら、振り続ける雨を眺めた。 廊下に屋根はあるが、強い雨風は容赦なく吹き込む。時々、ズボンや顔が濡れたが、立ち上がって帰る気は湧かなかった。 雨は代わり映えせず、退屈だ。 僕は指先の固まった血を見つめる。さっきまであんなに赤かった血は、もう黒い。 「そこで何してるの?」 隣から急に声をかけられ、飛び上がる。 首を横に向くと、両手に袋を下げた女性が僕を見下ろしていた。ガスマスクのレンズに僕が映っている。三角座りをした、間抜けな男。 彼女はこのアパートの住民だろうか。慌てて立ち上がりながら説明する。 「すみません。人を待っていただけです」 「ずっと座っていたのね。寒くないの?」 「平気ですよ」 嘘だ。尻と腰が痛くて、立っているのがやっとだ。 「それならいいけど。……でもね」 彼女はポケットから鍵を出しながら言った。 「そこの部屋の人、滅多に帰ってこないわよ。ずっと隣に住んでいるけど、会ったことないもの」 「そうなんですか。…教えてくださり、ありがとうございます」 僕は一礼し、たった十分の距離を、一時間かけて歩いた。 雨に濡れた服は水を含んで重くなり、髪は肌に張り付いている。それでもしっかり前を向いて歩けなかった。 これほど自分が嫌になった日は無い。 僕はあれほど好きだった人のことを、何も知らなかったのだから。 顔や住む場所は勿論、彼の抱えていた傷。 彼の苦しみや悩みに、気づくことも出来なかった。 「綺麗な文字や言葉を勉強したい」と言いながら、本を読むユウ 「褒めてもらえて嬉しい」と笑ったズオ 「俺なんかの為に」と吐き捨てるように言ったユウ 「自分は汚れている」と泣いたズオ 「失望しただろう」と呟いた彼 どんな気持ちで言ったのだろう。 これが小説だったら、書いてあるのに。 何も分からない。そして気づけない。 僕は彼のことを、何一つ知らなかったんだ。

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