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第13話 ミッドナイト・ブルー②

男から貰った金で、必要最低限の衣食住は揃った。 狭いアパートだが、母のいた家より過ごしやすい。硬い床に寝転がり、シミだらけの天井を見つめる。 明日から始まる仕事を待つだった。 金を稼ぐために身体を売ったことは何度かあった。しかし、こうして店に雇われたことは一度もない。気に入らない客がシャワーをしている間に、財布の中身を抜き取る方法はもう使えないのだ。 家具が一つも置いていない殺風景な部屋だが、雨風に晒されるよりはマシだ。 背中を丸め、膝を折って横になると、落ち着く。身体を小さく縮め、目を閉じた。 眠ってしまえば、寒さを忘れられる。 昔の俺は体調を崩し、よく寝込んだ。周りの人間よりも汚れた空気に弱く、咳き込むことも多々あった。 最近では、排気ガスを出す工場が閉まる深夜の間だけ、屋内ならマスク無しでも過ごせるようになった。 だから夜は客の前で、顔を出すことは可能だ。 何も心配することは無いはずなのに、胸がざわめく。 初めて相手をした客は、不思議な男だった。 画家や小説家といった職業が似合う、繊細で、利発そうな男。 ウェーブのかかった髪の下に、美術館に飾ってある彫刻のような顔があった。 これから彼が、俺を抱く様子を全く想像出来ない。それほどに彼は、ギラギラとした性欲とかけ離れていた。 シワ一つない、真っ白なシャツに身を包んだ彼は、ベッドに腰掛けている。 そして入室した俺に気づくと、目を細めてフッと微笑んだ。 緑と青の混じった瞳に見つめられると、何故か俺は動けなくなってしまう。 ただお辞儀をして、彼の反応を待つことしか出来なかった。 「外は寒かったよね。シャワー浴びてきなよ」 俺は声を出せないので黙って頷き、シャワー室に入った。 隣で眠る彼の髪を、つい撫でてしまった。 ハッと我に帰る。この俺が、行きずりの客相手に情が湧くはずが無い。 前もって書いておいたメモをサイドテーブルに置く。 あまり上手く書けた自信が無いが、何度も書き直して、このメモが一番上手く出来たのだ。 もう一度読み直し、頷く。きっとこれなら読めるだろう。 俺は彼が置いた代金を手に取り、部屋を出た。 月明かりを遮るほど厚い雲が、空を覆っている。 所々、街灯が消えていた。誰も直そうとしないからだ。 そのせいで街全体が暗い。しかも濃い霧がかかっているので、一寸先も見えなかった。 俺は誰もいない商店街を、早歩きで通り過ぎようとした。ひったくり注意の看板を横目に、ほぼ駆けるように歩いた。 ここを抜ければすぐに自宅だ。 ドスっ 背中を、急に強い力で押された。 バランスを崩し、前のめりになって倒れた。地面が目前に迫る。アッと思った時には全身に強い衝撃を感じた。 すぐに起き上がろうと、両手で体を支えた瞬間に腹を蹴られた。肘を折り、再び倒れる。 朦朧とする意識の中で、腰の辺りに違和感を感じた。俺を蹴った奴がズボンを弄っているのだ。 そしてポケットに入っていた物が抜かれた。 ─俺の財布。 今日の客から預かった代金が入っている。 取り戻すために、蹴られるを覚悟で立ち上がろうとした。 しかし泥棒は俺の行動を読んでいたのか、まだ倒れている俺の腹を再び蹴り、頭を殴った。 必死に抵抗したが、脳は衝撃に耐えられない。 それが決定打となり、俺は意識を失った。 目を覚ますと、俺は柔らかいベッドで横になっていた。 起き上がって辺りを見渡すと、隣に男性が座っているのが分かる。 眠っているのか、俯いていた。前髪がかかっていて、顔がよく見えない。 確認するために俺は目を凝らし、そして驚いた。 彼はホテルで会ったあの客だった。 昨晩道端で倒れていた俺を、助けてくれたのか。 彼を起こし、礼を言った。 そして成り行きで、昼間はここでアルバイトをすることになった。 しかし命の恩人でもある彼に、俺は嘘をついてしまったのだ。 「初めまして」 ─昨晩会ったのに。 「俺はガスマスクを手放せないんです」 ─夜はマスクを外して働いているのに。 何故か俺は咄嗟に「バレてはいけない」と思ってしまったのだ。 自分がズオであり、身体を売っていることを彼に知られたくなかった。 「誰にどう思われようと、関係ない。生きるためなら何でもしてやる」 そう思って生きてきたはずだった。 どうして彼の前では、自分の綺麗な部分だけ見せたいのだろうか。 自分のことなのに、分からなかった。

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