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第5話

 講義が終わり、教科書とノートを鞄に片づけていると、教室を出ていく講師がちらりとこちらに視線をやった。目が合う。一郎は一瞬考えた。今日はもういいかなと思っていたのだ。腹も十分満たされている。  でもまあいいか。  ふいと目をそらすと、一郎は黙ったまま講師の後をついていった。  彼はいつも空いている部屋に入ると鍵をかける。そしてなぜか最後に一郎を抱きしめようとする。一郎が一歩身を引くと、すぐにあきらめるのだが。  翼やツノについて言及したこともなかった。金もくれる。食事をして稼げるなんて願ったり叶ったりだ。  こういう人間は何人かいた。気絶しようが何をしようが、一郎のことは皆覚えている。後ろ盾が何もない一郎が特に苦も無く生きていられるのはそのおかげだ。  もう興奮で息が上がっている彼の前にひざまずいた。ぐいと頭を押さえつけられる。ひざをつくと高圧的な態度になる人間は多い。一郎は気にすることもなく、彼のものをくわえた。  小さなため息とともに熱は吐き出され、一郎はすべてを飲み下すと、翼をしまい口をぬぐった。彼が一歩前に出る。それにあわせて一郎は一歩身を引いた。  それなのに。  いつもと違った。頬を上気させた講師は、さらに近づいて一郎を無理やり抱きしめたのだ。怖気がたった。身をよじるが、やはり一郎は弱い。翼を出して飛ぼうにも部屋に鍵がかかっている。そもそも今は飛べない。  震えながら小さく非難の声を上げた。その様子にますます興奮して彼の腕の力が強まる。首筋に顔をうめられ、匂いをかがれた。何事かを呟いている彼の声は小さくて聞き取れない。  一郎は思い切り彼の首筋に噛みついた。あまり役に立たない小さいキバでも皮膚を破るには十分だ。とにかく一郎は噛みついて離さなかった。血が顔にかかる。講師が首を押さえ、呻きながら数歩よろめく。一郎は慌てて彼を振り払うと、震える手でなんとか鍵を開け、教室から出た。  顔の血をぬぐい、すぐにその場から離れる。心臓が耳元で大きな音を立てていた。足ががくがくと震えている。今にも崩れ落ちそうだが、必死に歩いた。とにかく遠くへ行かなければならない。  誰もいないのが幸いだと思っていたら、陸夫が階段を上ってくるのが見えた。タイミングが最悪だ。目を伏せようとするより先に視線が合った。  いつも無視をされるのだ。今日もそうに違いない。一郎は足早に通り過ぎようとして、陸夫に腕を掴まれた。  ぎょっとして陸夫を見ると、険しい顔でこちらを見つめている。何も言わず引っ張られて、倉庫になっている部屋の前へ強引に連れていかれた。離してもらおうともがくことはあきらめ、一郎はおとなしくついていった。  陰に入ったとたん胸倉をつかまれる。一郎が目を閉じて顔を伏せると、陸夫は耳元で囁いた。 「血がついてるぞ」  はっとして、胸元を見る。転々と血しぶきが飛んでいた。なぜか途端に恥ずかしくなって、一郎はその場にくずおれる。涙がこぼれた。陸夫はしゃがんで一郎と同じ目線になると、頭を撫でた。 「なんかあった?」  ぶんぶんと頭をふると、ため息が聞こえる。陸夫が着ていた上着を脱ぐと、一郎にばさりとかぶせた。もう一度頭を撫でられる。 「怖いときは叫べばいい」  ぶんぶんともう一度頭をふると、小さい声でつぶやいた。 「大丈夫だ」 「全然大丈夫じゃねーじゃん」  立ち上がる陸夫に手を差し出される。おずおずとその手を握るとぐいと引っ張りあげられた。 「俺の家に来い」  有無を言わさぬその言葉に、一郎は素直に従った。  その日陸夫は何もしなかった。  ただベッドの上で一郎を抱きしめて、首に顔を埋めている。何かを聞くこともなかったし、何かを話すこともなかった。  心地いい体温。首筋をくすぐる吐息。微かに聞こえる心音。  こんなにも温かい。  これが人の優しさか。  一郎は感動に打ち震えた。  と、突然陸夫が声を上げる。 「お前歳いくつ?」  唐突すぎて意味が分からないが、一郎は素直に答えた。 「29歳」  途端に陸夫は一郎から離れると、なぜか顔をしかめていた。 「はー? 130歳とか期待したのに。しょーもねーやつ」 「な、なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないんだよ!」  やっと普通に声が出た。一郎がはっとして口元に手をやると、よしよしと頭をなでられる。そしてふきだされた。 「29歳って。微妙にそこそこいってるのな。24で高校受験か。冒険したなあ」 「まあそんな歳には見えないけど」と、つぶやいて、もう一度頭をなでた。腹減ったなあ、と言いながらキッチンへ入っていく。  一郎は枕に顔を埋めると、ぎゅっとシーツを握り締めた。陸夫の匂いがする。  一郎は、どうしようもなく恋焦がれた表情をしていた。  熱い想いも感じていた。  今日の陸夫の行動は、深い愛情を感じさせるに十分だ。ならば自分が、彼に愛情を向けるのも自然なことだ。  陸夫に真意を尋ねることもなく、一郎は確信していた。  僕は陸夫に愛されている。

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