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第10話
「悟志にいちゃん!」
彼の姿を見つけて、陸夫は声を上げた。
陸夫は小学2年生で、まだランドセルを背負っていた。悟志は中学生だ。だいぶ年齢が離れているのに、彼は陸夫が付きまとっていても、嫌な顔一つしなかった。にっこり笑って手を差し出される。嬉しさに頬を染めて、陸夫はその手を握った。
陸夫は悟志が好きだった。
何かにつけてついて回り、彼がどこかへ行こうとすると悲しい顔をして困らせる。子供だからこそできる身勝手さだ。
悟志の笑顔が好きだ。抱きついたときに香る、匂いが好きだ。優しく頭を撫でてくれる彼の手が好きだ。
自分がどんなにみじめなのか、忘れさせてくれる。
本当は日が暮れようがずっとそばにいたいのだが、陸夫とは違って、悟志の家族は普通に彼を心配する。悟志も陸夫に家に帰るように促す。
ぼろぼろの服を着て、痣をたくさんつけて、たまに大けがをしている陸夫を。
たとえ気づいていたとしても、他人の悟志に何か言えるわけもない。それを背負うには、まだ悟志は幼すぎた。
玄関のドアを開けると、胸倉をつかまれて壁に叩きつけられた。
今日は機嫌が悪い日だ。
陸夫は背中を強打し、一瞬息が詰まった。涙をにじませて顔を手でかばう。それが気に入らなかったのか、腹を思い切り殴られた。今日は何も食べていないから、吐くものはない。それでも何かが口から吐き出される。母親はそれを見て顔をしかめ、陸夫の頭を壁に打ち付けた。
「汚すなっていってるだろ! さっさときれいにしろ!」
陸夫はうなずいて雑巾を取りに行く。一言も話せない。彼女は陸夫の声など聞いてくれたことはなかった。
「早く帰ってこいって言ったのに」
ぶつぶつと呟きながら、財布から千円札を取り出して陸夫に投げつけると、大きな音を立ててドアを閉める。がちゃがちゃと鍵をかけてどこかへいってしまった。
陸夫は口元についた胃液をぬぐいながら、汚してしまった床を拭く。
お金がもらえた。今日は機嫌が悪い日だったけど、気前のいい日だ。
きれいな化粧をして出ていくときは、2、3日戻らない。ひらひらと落ちた千円札を拾うとぎゅっと握り締めた。
コンビニでおにぎりの置いてある棚に手を伸ばしてうんうん言っていると、悟志が後ろからそれをつかんで手渡してくれた。陸夫は顔を輝かせる。学校の帰りらしく、制服を着て学生かばんを持っていた。
「アイス食べる?」
悟志が微笑むと、陸夫は彼にしがみついた。しかし、すぐにさっと離れる。
そういえば服を汚してしまっていたのだ。
昨日殴られた腹が後から急に痛み出し、何度も胃液を吐いてのたうちまわっていた。そのまま寝てしまい、朝起きると何もなかったかのように腹が空いた。着替えようと思ったが、服がなかった。裸で出るわけにもいかず、そのままでコンビニに来たのだ。
悟志は不思議そうに微笑みながら、手を引いてアイスと陸夫が持っていたおにぎりを買ってくれた。
公園で2人で食べる。甘いものは貴重だ。本当は半分持って帰りたかったが、悟志が頭をなでていてくれるので、溶ける前に全部食べてしまった。
陸夫は自分が汚れていることをわかっていたが、悟志はそれについて何かを言ったり、嫌な顔をしたりしたことはなかった。
胸が熱くなる。
優しくしてくれるのは悟志だけだ。
「そろそろ帰ろうか」
そう言われ、しょんぼりする。しかし、今日はあまりぐずぐずしていられない。汚した床をきれいにしていない。今母親が帰ってくると、また殴られるだろう。しぶしぶ頷くと、手を握って立ち上がった。
公園は大きな通りに面していた。大した交通量ではないが、道幅が広く見通しがいいので、通る車は結構なスピードを出す。いつも悟志が横断歩道まで連れていき、左右を確認して渡るのだが、今日は違った。通りの向こうに母親の姿が見えたのだ。
陸夫は青ざめた。
彼女は陸夫が悟志と一緒にいることにいい顔をしない。
慌てて手を振りほどき、母親を見つけて無邪気に走り寄っていくふりをして、悟志に別れを告げようと振り返った。
その時。
思い切り体を押された。大きな急ブレーキの音が聞こえ、陸夫の視界は反転した。青い空がやけにゆっくり移動する。
そして見えたのは、空に浮かぶ漆黒の翼と黒い鎌を持った、死神だった。
道路に転がって、しばらく空を眺めていた。何が起きたのかわからない。でも、起き上がって、悟志の姿を見るのがひどく嫌だった。さっきの死神はいなくなっていた。
あれはきっと、僕の魂をとりにきていたはずなのだ。
大声で泣いた。周りのざわめきが大きくなり、陸夫は誰かに抱き起こされる。目の前にはガードレールに半分突っ込んで止まっている車と、血の海の中に倒れている悟志の姿。すぐそばを歩いていたはずの母親の姿はなかった。
陸夫はそのまま気を失った。
大きな金切り声が聞こえ、陸夫は目を覚ました。真っ白い天井が見えて、慌てて起き上がる。
病院へ行くことは許されていない。
腕につながれていた点滴のチューブを引き抜くと、痛みに顔を歪めながら急いで靴を履く。部屋からでると、悟志の母が半狂乱になって、陸夫の母親を罵っていた。母親はただ頭をさげ、何度も謝っているようだった。
心無い言葉が飛び散る。
ドアを開けて呆然と立っている陸夫を見つけると、母親は鬼のような形相で服をつかみ、悟志の母の前で床に頭を押し付けた。
さすがに彼女も一歩引く。急に声が小さくなって、ハンカチで目元を覆いながら、どこかへ走って行ってしまった。
悟志が死んだ。陸夫をかばって。
大好きなお兄さんは、こんなくだらない自分を生かすために、死んでしまったのだ。
家に帰ると、母親は何を言っているかわからないほど大声で叫びながら陸夫を蹴り、殴りつけた。
かろうじて聞きとれた言葉は、
面倒を起こしやがって。
お前が死ねばよかったのに。
何度か家に警察が来た。事故のこともそうだが、病院から陸夫の体中の痣や傷のことを通報されたのだ。母親は決して陸夫を、寝室と呼べるのかもわからない汚い部屋から外には出さず、玄関でけんか腰になり誰かと言い合っている日々が続いた。
悟志の葬式には連れていかれた。
母親は綺麗に化粧をして、喪服を着ている。陸夫はただ黒いだけの汚いシャツを着せられて、引っ張られるように歩いた。
そこで母親と陸夫は畳に頭をこすりつけてわびの言葉とお悔やみを言い、悟志の母に無視をされ、悟志の父になだめられた。
顔を上げた陸夫の震える肩に悟志の父の手が乗せられる。涙ぐんで悟志の死に耐えるように眉間にしわを刻み、それでも笑って言ったのだ。
「悟志の分も幸せになってくれ、な」
世界が闇に包まれた。体に大きな岩が乗せられたようにずっしりと重くなった。足の下から凍り付きそうなほどの冷気が立ち上った。上下左右の感覚がなくなり、沼に沈んでいくようだった。何かが陸夫の首に首輪を巻き付け、決して現世から飛び出さないように鎖でつながれた。
息が苦しい。胸がつまる。食い込んだ首輪のせいで声も出ない。
人一人の人生を背負うには、陸夫の体はあまりにも小さすぎた。
引っ越すことのできないままそこに住み続け、母親はさらに家によりつかなくなっていた。陰でこそこそと陸夫の噂をする声が聞こえる。耳をふさいでも聞こえる。幼い陸夫の味方をしてくれるものは誰もいなかった。
知識が身についてから、何度か悟志の家に線香をあげにいったが、自分が姿を見せることで、悟志の両親が苦しむのだということを理解してからは行くのをやめた。
誰の目にも触れないように、なるべく外へは出ない。
自分の生はいろんな不幸の上に成り立っている。
そこまでの価値がいったい自分のどこにあるのか。
でも自ら死ぬことはできない。
人の命を奪ってまで、今まで生きてきたのだ。
まるでそれを枷のように思っている自分を嫌悪した。
高校に入るころには、母親は帰ってこなくなった。陸夫は自分の性的指向を理解し、体を売って日々を生き延びた。
セックスは好きだ。気持ちいいことは今の自分の現状を忘れさせてくれる。
でもこのまま母親のようにはなりたくない。
学校にだけはちゃんと通い、勉強をし、金をためて大学へ行く。それだけが目標だった。
いつしか陸夫は、へらへらと笑っていれば誰にも信用されず、誰もそばに寄ってこないことに気づき、声を出して大げさに笑うようになった。誰もそばにいなければ、周りの人間を不幸にすることはないのだ。何かあれば笑ってしまえばいい。ちっとも救われないけれど。
大学受験に合格し、陸夫は引っ越した。金もずいぶんたまった。これで、学業に専念できる。でも何をしたいのかわからない。目標は達成してしまったのだ。
もう何もかも面倒くさい。死にたい。はやく、死にたい。
だれか俺を殺してくれ。
そして出会ったのだ。
あの死神に。
死神に似た、悪魔に。
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