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第11話

 目が覚めると泣いていた。  一郎のツノを手に入れてから、久しく見ていなかった悟志の夢。  顔に手を当てて涙のあとを拭う。流れ落ちた涙が耳の中に入り込んで気持ち悪かった。  陸夫は起き上がると、サイドテーブルの引き出しから一郎のツノを取り出す。  こんなにわかりやすく側に置いていたのに、一郎は気づきもせずにいつもここで眠っていた。  これは離れていても作用するんだろうか。  今これを舐めたりしたら、どこかわからない場所で一郎は勃起して、とんでもなく恥ずかしいことになって、自分を思い出したりするのだろうか。  手のひらで転がしながら、じっと見つめる。  一郎はあの日以来、ここには来なくなった。大学でも出会わない。たかが2週間姿を見ていないだけで、どうしてこんなに感傷的になっているのか、陸夫にはわからなかった。あの時、 一郎がどうして泣いていたのかもいまだにわからない。  陸夫は立ち上がり、洗面所へ入っていった。鏡に映った己の顔はあまりにもひどいありさまだ。目の下のくまは昨日見た時よりもさらに濃くなっていた。冷たい水で顔を洗い、タオルで拭う。ふと思い出してタオルに視線を落とした。  一郎が意識を飛ばした後、陸夫はいつもこれで彼の顔や体を拭いていた。  ぎゅっと握り締める。  だから何だというのだ。  一郎がいなくなったから、何だというのだ。  確かに彼に殺してもらおうと思っていた。偶然出会ったのが悪魔だったなんて、これ以上ない幸運だ。自分でできないのなら人にやって貰えばいい。悪魔に良心の呵責なんて無いだろう。セックスだって、最後に散々やって死んでやろうと思っていただけだ。  はあ、と大きくため息をついて、陸夫はタオルを放り出し、椅子にかけてあったシャツに腕を通した。  交渉材料のつもりだったが、一郎のツノももう必要ない。  返してやらないとかわいそうか。  陸夫はもう一度大きくため息をつくと、ごしごしと顔を擦った。  もういい。  もうこれでいい。  きっと悟志も許してくれる。  幸せなんて、そんなもの、今までの俺の人生のどこにもなかった。  もう、十分だろ。  タバコをくわえながら、陸夫は屋上へ続く階段を上っていた。やはり喫煙室は苦手だ。外なら誰も文句を言わないだろう。よく晴れた日にまぶしい太陽の下でタバコを吸うなんて。くそみたいな気分だ。  がちゃりとドアを開けるのと、悲鳴が聞こえたのは同時だった。一瞬足が止まる。なんだ今のは。外に出て辺りを見回すと、あまり広くはない屋上に一郎が立っていた。黒い鎌を携えて。  ぽとりとくわえていたタバコが落ちる。立ち尽くす陸夫の方へ一郎はゆっくりと顔を向けた。 「お前なにしてんの」  彼は何も答えない。 「なんだよその鎌。そんなのも持ってたのか?」 「なあ」と陸夫は一郎のそばへ近づいた。  下の方で悲鳴とざわめきが聞こえる。屋上の縁から下をのぞき込むと、女が血だまりの中に倒れていた。手足がありえない方向に曲がっている。遠くてよく見えないが、頭も割れているのかもしれない。  陸夫は一郎のもとへ詰め寄った。肩に手を置いて揺さぶる。 「なあ、お前が殺したのか? その鎌で? お前、」 「僕はなにもしてない」  いつもと同じ口調だった。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。一郎は陸夫の手をつかむと、構内へ入ろうとした。陸夫はその手を振り払う。 「なにもしてないわけないだろ! 突っ立ってたら人が飛び降りたっていうのかよ」 「とにかく中に入ろう。ここにいると誤解される」  一郎の手にはもう鎌はなかった。陸夫は一郎の背中を追う。裏庭まで黙ったまま2人で歩いた。  陸夫の頭の中はぐちゃぐちゃとして考えがまとまらない。  でもこれで、本当に殺してもらえるかもしれない。やっぱりこいつは死神だった。  ようやく一郎が立ち止まり、木陰で振り返る。陸夫はいつものように笑えなかった。一郎へと伸ばした手が震えている。そんな自分に苛立ちながら、一郎の腕をつかんだ。 「説明しろよ」  一郎は小さくため息をつく。 「せっかく会えたのに」とつぶやいた。 「悪魔は人の死に敏感なんだ。死を直前にした人間からは強い匂いがする。それにつられて現場を見にいくんだよ。ただの興味本位だ」 「お前がただの興味本位なんかで、そんなことしないだろ」 「……死に方によって匂いが違う。僕はいつも自殺者を追いかけてる」 「なんで」 「とどめをさすためだ」 「…………」 「死に損なったら苦しいじゃないか」  それと殺しているのと一体何が違うのだ。  いや。そうだ、こいつは悪魔だった。  一般的な人間のような感情で動いていない。  人を殺すのに良心の呵責がないだろうと考えたのは自分ではないか。 「お前が悟志兄ちゃんを殺したのか」 「だれのことだ」 「俺が子供のころに、事故で死んだんだよ。死ぬのは俺だったはずだ。なんかしたんだろ?」 「それは僕じゃない。悪魔なんていっぱいいる。それに、死ぬはずのない人間は死なない」  陸夫は納得していない表情で、一郎を見た。一郎の瞳が少しうるんでいる。 「でも、助けられたはずだ」 「悪魔は人を助けない」  陸夫は頭をかきむしりながらため息をつく。顔を背けるとぼそりと呟いた。 「ツノいらねーのかよ」 「いるに決まってる」 「じゃあなんで、取りに来ないんだよ」 「……あんたを殺したくなったから……行けなかった……」  どくりと心音が大きく響いた。  これは恐怖なのか期待なのか。 「本当は、会いたかった」  一郎の表情は切ないほどに切実だった。  陸夫は頭をかきむしりながら、ポケットからタバコを取り出す。彼はめったにタバコを吸わない。吸うのはどうしようもなくなった時だけだ。 「来ればよかったんだ」 「だから……」 「俺を殺してくれればよかった。俺はずっと、お前に殺してもらおうと思ってた」  一郎は目を見張り、陸夫の顔を見る。陸夫は口を引きむすんで一郎から顔を背けた。一郎の目からぼろりと涙がこぼれ落ちる。 「なんでそんなこと言うんだ。僕はあんたに死んでほしくない」 「何言ってんだよ。殺したくなったんだろ? ちょうどいいじゃねえか」 「違うんだ。僕はずっとあんたに愛されてると思ってた。でもそうじゃなかった。僕の勝手な思い込みだった。だけど、裏切られた気がしてしまったんだ。それが殺意に直結するなんて思わなかった」  一郎は目元を覆い俯いた。小さな声を絞り出す。 「あんたが好きだ」 「…………」 「殺したくない」 「俺は死にてえよ」 「いやだ」と呟いて一郎が首を振る。 「どうしたんだ、急に。いつも楽しそうに笑ってたじゃないか」 「……笑ったふりなんて簡単なんだよ」 「そんな……今までずっと……」  陸夫は黙って目をそらす。一郎は陸夫の肩に縋り付いた。 「お願いだ。死にたいなんて言わないでくれ」 「……悪かったな、勘違いさせちまって」 「…………」  一郎が肩を握る手に力を込めた。その手をやんわりと肩から離すと、陸夫は踵を返した。 「待っ…………」  手を伸ばした一郎を無視してそのまま歩き出す。  背後で嗚咽が聞こえた。一郎がしゃがみこんで泣いていた。  やはり、自分のそばにいるだけで、その人を不幸にしてしまうのだ。  悪魔だって例外じゃなかった。  そうやって人を踏みにじって生きているのだ。  ろくでもねえ。  本当に、さっさと死んじまえよクソ野郎。

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