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第12話
管理がずさんなビルの屋上。前から何度か足を運んでいた。大学なんかより、はるかに高い。ここから飛び降りれば即死だろう。縁に立って下を眺めていた。
陸夫はここから飛び降りていた。何度も何度も何度も。頭の中で死んでいた。
そうするよりほかに、生きるすべを見つけられなかったのだ。馬鹿笑いをしながら、死が頭から離れることはなかった。でもそんなもの、誰かに見せる必要はない。ただ静かに死んでいけばいい。
そう思っていたのに。
なぜ、一郎にあんなことを言ってしまったのか。
陸夫の心は得体の知れない感情であふれかえっていた。
好きだと言われた。
あんなにはっきりと。
そもそも俺はなんで自分で死のうと思ったんだ。
一郎が俺の前からいなくなってしまったからなんじゃないのか。
ただ殺してもらいたかっただけのはずだ。セックスする相手が欲しかっただけのはずだ。
なのにあいつは、俺のために、俺のせいで、あんな風に泣く。
幸せなんてなかったと思っていたが、一郎といる時に、そんなことを考えただろうか。
このぎりぎりと心臓を締め上げるような痛みは何だ。
もやもやと曇っている胸の中はどうなっているというのだ。
一郎の告白で、ヒビの入っていたところに確かに何かが刺さった。砂のようになった破片がザラザラとこぼれ落ちていく。
一郎に言われた言葉が頭から離れない。
好きだなんて、そんなこと、生まれて初めて言われた。
それを無視できるほど、俺の心は強くない。
「突き落としてあげようか?」
背後で一郎の声がした。どきりとしたが、陸夫は振り返らずに答える。
「死んでほしくなかったんじゃねーのかよ」
「辛い思いをしながら生きててほしくもない」
「俺そんないい匂いする?」
「いや、あんたの後をつけてきた」
陸夫はふきだした。小さく肩をゆすって笑う。
「尾行うまくなったな」
陸夫が口を閉じると、雑音があたりに満ちる。風の音とはるか下の方から聞こえてくるクラクションの音。人の声が聞こえるわけはないが、ざわざわとしていた。
「あんたが幸せになれるなら、僕は躊躇なく背中を押すよ」
「ばーか。お前がそんな潔いことできるわけないだろ」
ばさりと音が聞こえる。首だけで振り向くと、一郎は黒い翼を出して、黒い鎌を持っていた。涙を流して。
ずきりとまた胸が痛み出し、しかしいつもの癖で陸夫は大げさに笑い声をあげた。
「うは、やっぱりそれ凶器なの?」
「恰好だけだ。何もできない」
「お前そういうの多いな」
一郎は涙を拭おうともしない。
笑っていた口元が力なく下がる。一郎の泣き顔を見ていると、どうしようもなく切なくなる。
気づくと、陸夫の目からも涙がこぼれ落ちていた。
体を振り向かせ一歩足を進め、手を伸ばす。
「一郎、助けて……助けてくれ……」
ああ、これが、俺の本心か。
涙がとめどなく溢れ、膝をついてしまった陸夫に、一郎が駆け寄ってくる。顔を上げた陸夫を思い切り抱きしめて、涙で濡れた顔を首筋にこすりつけた。
「僕ができることならなんだってする」
だから生きて。
これはただの願望だ。一郎もそれはわかっている。でも陸夫は手を伸ばした。その手をつかまなくて、その体を抱き寄せなくて、何が愛情だというのだ。こんな言葉で消えてしまう気持ちではないだろう。その程度のものなら、陸夫はこの屋上には来なかったはずだ。
それでも、その言葉は陸夫の唇を笑みの形に変えた。陸夫の手が背中にまわる。
「好きだ」
一郎が陸夫を抱きしめたままで言うと、彼は背中にまわした手に力を込めた。
「俺もだ」
しばらく抱き合っていた。腕に力を込めて、一郎にもたれかかるようにして。しかし、あまりに重いのか、支えている一郎の体がぷるぷると震えだしていた。陸夫は細く息を吐いて笑い声をもらすと、目をこすりながら体を離し、立ち上がろうとした。
ぐらりと体が揺れる。
不安定な場所だということ忘れていた。陸夫の体がビルの外に放り出される。
「陸夫!」
一郎が陸夫の服をつかんだ。非力な一郎が力の限り陸夫を引っ張って屋上に突き飛ばす。その反動と勢いのまま、一郎が空中へと飛び出した。
思わずその手を陸夫が掴む。力を込めて引っ張るが、一郎の勢いには勝てず、二人して抱き合うように落下していった。
ばさりと、黒い翼が音を立てる。必死にはばたかせ、一郎は陸夫をつかんだまま離さなかった。
「なんだ、飛べるじゃん」
涙がおさまったのか、陸夫はいつものように笑って言った。一郎は安心し、安心している場合ではないことを思い出す。慌てて翼を上下に動かした。
「いや、落ちる」
地面に近づくにつれて、はばたく回数を増やし、なんとか勢いを殺そうとする。ふらふらしながらも、少しずつスピードは落ちていった。しかし限界を超えたのか、ぜえぜえと息をする一郎の翼の動きが止まる。そのまま暗いビルの狭間に結構な高さから落下した。
「痛い……」
陸夫にのしかかられるように地面にたたきつけられる。彼の重みも相まって、思わず背中にしまった翼を心配した。
折れたんじゃなかろうか。
激しい運動と着地の衝撃で一郎はぜいぜいとあえいでいた。
陸夫が手をついて自分の体を持ち上げ、そのまま見下ろしてくる。彼はにやりと笑った。
「悪魔は人を助けないんじゃなかったのかよ」
「例外もあるみたいだ」
「このままやっちゃう?」
「ばか」
「なあ気づいた?」
頭を落とし、陸夫が一郎の額に自分の額をくっつける。一郎は怪訝そうに、彼を見つめた。
「お前初めて俺の名前呼んでくれた」
途端に一郎の顔が真っ赤に染まった。何かを言おうとして思い切りむせている。上体を起こしてげほげほとやっていた。また翼がばさりと顔を出す。陸夫はそれに手を触れて、笑った。
「助けてくれて、ありがとな」
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