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恋を奏でる爪音:遠出 4

 あのときの痛みをまざまざと思い出して私が眉根を寄せると、同じような面持ちの翼の君が声を押し殺しながら口を開いた。 「吾は山上宮様に言われるまで、全然気付きませんでした。ですが今考えると山上宮様とご一緒している宮様が、見たことのないお顔をなさっていたのを、度々垣間見ていたんです。見ていたのに気づけなかった吾は、大馬鹿者なのかもしれません」  いつもよりも低い口調で告げられた言葉は、翼の君の苦悩を示すもののように聞こえたため、問いかけることに戸惑いを覚えた。打ちひしがれた顔のまま、むっつり黙り込んでしまった翼の君の重たい口を開かせるために、息を吸い込みながら思いきって声をかける。 「……翼殿、見たことのない宮様のお顔とは、いったいどのようなものであったのだ?」 「ああ、なんと表現したらいいのでしょう。甘いお顔というか、色っぽいお顔というか。ただ言えることは、吾と一緒にいるときには絶対に見ることのできないお顔でございます」  そのときの宮様のお顔を思い出したのだろう。目の前にある翼の君は悔しさを顔に滲ませつつ、瞳は諦めの色を浮かべた。 (私も宮様のそのようなお顔を、今まで拝見することはなかったな。山上宮様との逢瀬を覗き見てから、まともに直視できなくなったせいもあったが……) 「翼殿のお気持ちを考えると、その――」  気落ちしている翼の君に話しかけづらく、言葉がうまく出てこなかった。翼の君は変に気遣う私を見ながら、悲壮な表情をそのままに口を開く。 「山上宮様も酷いんですよ。やれ予の宮だの、柔らかい唇をしてるから溺れそうだとか、絹のように滑らかな肌をしてるなんて、わざわざ言わなくていいことまで仰って、吾の心を散々かき乱したんです!」  語尾にいくにしたがい翼の君は声を荒げさせ、感情にまかせるように手にした茶碗を音をたてて床に置く。その衝撃で中のお茶が零れて、辺りをしとどに濡らした。耳に残った割れてしまいそうな茶碗の異音と零れたお茶を前にして、私は不快感に顔を歪めながら語りかけた。 「それは逆に、山上宮様の敵対心から仰ったんじゃないのだろうか?」  その当時の翼の君と自身の立場を重ね合わせて指摘すると、翼の君は若干うな垂れながら答える。 「そうですね。すべてを把握した上でそういうことを仰った意味について吾がわかったのが、山上宮様が呪詛がもとで亡くなられる前日の夜でした。こんな吾に牽制なんて、無駄なことをしなくてもいいというのに」 「呪詛について、衛門府検非違使衛士の依川殿と海崎殿にお話を伺っている。きっと山上宮様は、翼殿が怖かったのだろう」 「残念ながら吾は、卑下すべき存在なのですよ|鷹久《たかひさ》殿」 「なにゆえ、そのようなことを言うのだ?」  疑問を口にしながら翼の君を見やると、瞳を曇らせながらどこか諦めたような顔をした。 「あの夜、山上宮様をお送りするのに、いつものように中門までご一緒しました。夜空には刀で切られたような形をした赤い月がぽっかり浮かんでいて、山上宮様とふたりで忌まわしいなという話をしたんです」 「ほう……」 「山上宮様が涼しげな一重瞼をちょっと吊り上げ気味にして、赤い月から吾の顔を鋭く睨んだときに訊ねられたんです。『おまえはどうやって宮を守るのか』って。迫力のある声に、吾は一瞬固まっちゃいました」  帝の跡継ぎ争いで、互いが今よりも牽制しあっていた頃だった。だからこそ、なにが起きても不思議じゃなかった。同じことを山上宮様に問いかけられたら、まともな返事を私はすることができたであろうか。 「翼殿はなんと答えたのだ?」  自身の答えが出ぬままに、翼の君に訊ねてしまった。 「吾は喜んで、宮様の盾になると言いました。そしたら山上宮様に頭を強く殴られたあとに、この大馬鹿者ってこっぴどく叱られたんです」 「――そうであったか」 (自身の恋をとうに諦めてしまった私は翼殿のように、宮様をお守りするために、盾になることができるであろうか。山上宮様のお訊ねになったことについて、瞬時に答えることができた翼殿が、ある意味羨ましい限りだ)  そんなことを考える間に、翼の君はさきほど浮かべていた憂鬱な表情を変え、瞳にありありと力を宿しながら語りかけていく。 「盾となることなど、誰にだってできる。盾となり斬られて死ぬだろう。そのあと宮がどうなるかわからないのかって、両耳が痛くなるくらいに酷く怒鳴られちゃいましてね。好きな者のためなら、全身全霊で最期まで守り抜けって……」  翼の君は右拳を胸の前に出し、力強く握りしめた。 「山上宮様から、吾のこの手で宮様を守り通さなければならない。そう教えられました」 「山上宮様のお言葉は、まるで遺言のようだな」 「誰かを想う気持ちは、どんなものよりも強い。そして自分も強くなれるんだって仰っていたのに……」  愛しい水野宮様を守ろうとする強いお気持ちが、山上宮様にあったからこそ、水野宮様にかけられた呪詛をみずから受けることになり、お亡くなりになられたのであろう。 「それだけ深く愛した山上宮様が亡くなられたあとの宮様の気落ちぶりは、相当だったものな」 「はい。床に伏せられた日が、ひと月以上ありました。あまりのご様子に、そのうち誰も寄りつかなくなってしまわれて、宮様おひとりでお過ごしになることが増えられたのです」  せっかく山上宮様に守られたお命だというのに、あとを追うかのようなご様子だった。 「それも、無理からぬことであろうな」 「そこで考えたんです。吾が宮様にできることはないかと――」 「ああ、なるほどな」  今まで引っかかっていた疑問が、翼の君のその言葉で解けて、胸がすっとした。 「吾の手で宮様のために楽箏を奏でようと考えたのですが、幼少期に母から指南を受けて以来弾いておりませんでした。宮様にお聞かせする前に|鷹久《たかひさ》殿にご指南戴いたのは、このためだったのです」 「そうであったか……。私が翼殿のお役にたつことができて、なによりであった」 「お蔭様で昔の勘を取り戻し、宮様の御前で無事に披露することが叶いました。このお方のために、自分のできることがひとつ増えた。そう考えたら、涙ぐみそうになっちゃいましてね。鼻をすすった衝撃で、最後の一音を間違えてしまった次第でございます」  言いながら私に向かって、丁寧に頭を下げる翼の君。水野宮様を大切に想うその気持ちが伝わり、思わず口元が緩んでしまった。 「翼殿が楽箏を奏でたことがきっかけで、宮様はお元気になられたというわけだったか。それはとても良きことではないか」 「そうなんですが、宮様が布団から起き上がり、琴の指南をしろと申されて、吾にいきなり詰め寄ってきたのでございます」 「それはなんだか、急な展開だな」 (これはもしかして、もしかするな。あの宮様なのだから――) 「まったくです。|鷹久《たかひさ》殿にご指南されている宮様を吾が教えるなど、とんでもないことでございますと、その場から慌てて逃げたんです。すると宮様は急に床から起きるなり、吾を追いかけてきて……」 「長きにわたり、床に伏せられていたというのに、随分とお元気になられたのだな。さては翼殿の思いやる心が深く伝わり、宮様は好きになられたのかもしれぬ」 「好きって、あの?」  私の告げた言葉が信じられないといった表情を、翼の君はありありと浮かべる。目の前で揺れる双眼が、震えるように揺れ動いた。信じたいけど信じられないという、内なる翼の君の感情を瞳が表していた。 「だって翼殿が琴を弾いたのを見て、宮様はとてもお喜びになったのであろう?」 「はい。それまで落ち込んでいたのが、嘘のようなご様子でございました」 「ならば琴を一緒に弾くという口実はつまり、もっと翼殿に傍にいてほしいと望んだのであろうな。つまり宮様は翼殿と恋を語らいたいと考え、そのきっかけになるであろう、琴の指南を頼んだに違いない」  水野宮様のお気持ちを私が代わりに晒してあげたというのに、翼の君は両手に拳を作り、力なく首を横に振った。 「宮様が吾のことを、そんなふうに思うはずがありません。絶対に違います」 「翼殿! なぜ宮様のお気持ちから、目を背けようとするのだ!」  私は堪らなくなり拳で床を殴りつけると、翼の君は驚いて肩を竦める。 「|鷹久《たかひさ》殿、吾にはそんな資格なんて、最初からないのでございます。だって吾は……吾は山上宮様の死に悲しんでいらっしゃる宮様をお慰めするといいながら、実はこれで宮様を我が物にできるかもしれない。そう……」  なにかに耐えるように膝の上に置いた拳をさらに握りしめてから、つらそうに言葉を繋げる。 「心の奥底に山上宮様の死を喜んでいる、もうひとりの吾がいるのです。このような、さもしく醜い心を持っている吾が、尊い宮様を想うなんてあってはならないことだと思うのです」 「なるほどな。だから自分を卑下すべき者と言っていたのか」 「……はい」  私の言葉に翼の君は伏せていた顔を上げ、どこか虚ろな目で見つめる。空虚になったそれを埋めるように、私は語りかけた。 「山上宮様の死は確かにご不幸なことだと思うし、翼殿が並々ならぬ想いをしているのも理解するがな。罪の意識を未だに持ち続けるのは、どうなんだろうか?」 「罪の意識?」 「翼殿がそうやって囚われたままでいるように、宮様にも囚われたままでいてほしいのか?」 「それは――」 「山上宮様とのことはそれとして、翼殿との未来を築いて行きたいと宮様は思っているはずなのだ。だからこそ、あのような歌を詠われたのではないのだろうか」  清涼殿の歌会で、水野宮様が詠まれたあの和歌――今の翼の君と同じく、つらそうなお顔でお詠みになっていた。 『夕されば 蛍よりけに燃ゆれども 光見ねばや 人のつれなき』 (夕方になると自分の想いは蛍よりも燃えているのに、光が見えないのか、あの人は素っ気ない) 「これは、翼殿に宛てた歌であろう?」 「違います、あの歌は山上宮様を想って詠んだのではないのでしょうか。宮様が吾のことを想うなんて」 「私にはわかる。翼殿の気持ちを感じることができるように、宮様のお心も感じるんだ」 「宮様のお心でございますか?」 「ああ。私は曲を奏でるとき、そこに流れ出る気と対話している。目には見えぬものなれど、それは必ずあるものなんだ。だから翼殿の気が宮様に流れているのを感じる上に、宮様の気が翼殿に流れているのを感じ取ることができる」 「吾に向かって、宮様のお心が流れている?」  翼の君が首を傾げながら、不思議そうな顔をする。 「翼殿も、本当は感じているんじゃないか?」  掠れた声で告げるなり、翼の君をぎゅっと抱き寄せた。床に零れている茶で着物が濡れてしまったが、全然かまわなかった。 「頼む。宮様の幸せそうなお顔を、そろそろ見せてはくれないか。このことは翼殿にしかできないのだから」 「|鷹久《たかひさ》殿、わかりました。自分の気持ちを偽らずに、宮様に告げようと思います」 「ありがとう、本当にありがとう翼殿」  水野宮様を想う気持ちが一緒だからこそ、わかり合えることがある。あのお方のあたたかい笑顔としあわせなお姿を見ていたい。強くそう思ったひとときになった。

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