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第六話 その慟哭は産声に似て

 鳥が羽ばたく音。枯葉が風に舞い地面を転がる微かな音に、それを追いかける竹箒の擦り音。そのうちに朝の早い近所の老人が日課の散歩にやって来て柏手が響くだろう。  俺にとってはいつもと変わらぬ朝。樹貴(たつき)にとっては、鈴の音で心臓が縮むような思いをした朝。  何度も大丈夫だと言い聞かせて、それでも本殿の外を行き交う人に存在がバレるのではと危惧する樹貴の瞼を掌で覆った。 「なぁ、樹貴。俺はここを捨てようと思う」 「え?」  この神社に奉られている以上俺は鳥居の向こうの世界に介入できないのだと説明した。 「神様も不自由なんだね」 「そうだな。思いもしなかったが、確かになかなかに不自由だ。お前がここを出て行ってしまったら、追いかけて行く事もままならない。また絵馬掛所で待ち伏せるヘンタイになるしかない」    その言葉に樹貴の肩がピクリと揺れ、蚊の鳴くような声で謝罪された。 「でも! ホントに神様がいるなんて……いたけど!」 「いたな。でも助けてやれない神に意味はあるか? ここでまたお前が絵馬を書きに来るのを待つだけの存在になんの意味がある?」 「そ、れは……でも」 「お前を苦しめる者から解放してやろう」  心の奥底で死を望む少年の為に祟り神とやらになるのも良かろうとさえ思うこの胸の奥に燻るのは――。 「神様がいなくなったら、もう会えなくなる……それは嫌だ」 「いなくなるわけじゃない。そうだな、多分、守護霊とかそういうものになるんだろう。元神様の守護霊なんて強そうで良いじゃないか」  そうだねと頷いて欲しかったのだ。  目には見えなくなっても常に傍にいる事を許されたかったし、求めて欲しかったのだ。 「嫌だ」  短く、ハッキリと言い切った樹貴は俺の手首を掴むと思いの外強い力で顔から外した。格子の隙間から注ぐ陽の光が零れ落ちそうな涙に反射して煌めく。 「ずっと、傍に、いたいなんて、贅沢だしっ、ホントはこうして話したり触ったりするのもダメなんだろうけど……神様がいなくなったら、誰が俺を抱きしめてくれるの?」 「待て、何でダメなんだ? 意味が解らない」  汚いから。  その言葉が耳に届くのと同時に樹貴の頬を涙が伝った。  意味を理解して抱きしめた時には既に数滴の涙が床にシミを作っていた。  泣いて泣いて、呼吸がおかしくなる程泣き喚いて、まるで赤子だ。頬も鼻の頭も耳も首筋ですら赤く染めて、心に溜めていた全ての(オリ)を洗い流しているようなそれは見事な泣きっぷりだった。 「赤子……産声……あぁ、そうか」  誰も死ぬ必要なんてない。俺も姿を消す必要もない。   「樹貴、樹貴! よく聞け。俺はお前の願いを今なら叶えてやれる。助けてやれるし、時が経てば死んだ事にもしてやれる。だから、ここにいろ。俺の手を離すな。ここで! 俺の腕の中で生まれ変われば良い」 「は? え?」 「お前の矛盾する心に()かれた。絵馬に書き込まれた丁寧なくせに少し右上がりの字が好きだ。でもそうしたら、お前もこの神社から出られなくなる。外の世界を知っているお前には退屈な場所だと思う……それでも、俺はお前に俺以外が触れるのを許したくない」  背中を這い上がるアレは、胸に燻る想いは神が持つには不似合いな過度な執着心と神が持つには似合いの傲慢な独占欲だ。 「俺は、汚いよ?」 「で?」 「いや、だから、神様への貢物は、汚れてたらダメなんでしょ?」 「知らん」 「知らんって……」    俺は神として降り立って以来、貢物だの生贄だのをされた事はないし要求した事もない。見返りに人間を助けた事もない。  感情の見返りに……これが最初で最後だ。 「どこにも行くな。誰にも触れさせるな」  俺を独りにしないでくれ。何もできずに手をこまねいて、お前が来るのを待つだけの日々なんて想像するだけで気がおかしくなりそうだ。  俺の剣幕にすっかり涙の引いてしまった樹貴がぽかっと口を開けた間の抜けた顔で真っ直ぐに俺を見つめている。 「驚かせたな。すまない。まぁ、そういう手段もあるって事で考えてくれればそれで良い」  俺の胸に渦巻く決して美しいとは言い難い感情は、樹貴を苦しめた者達のそれと何が違うのだろうか。  一時の支配と、永劫の独占――俺の方がよほどタチが悪いのではないか。  後ろめたさに視線を外してしまった俺の手をクッと引いた樹貴がおずおずと言葉を紡ぎ出した。 「その……ちゃんと綺麗に生まれ変われたら、また抱きしめてくださ……わっ! 神様?」  あれだけ泣いたんだ。そして一晩神の領域にいたんだ。  俗世の穢れなど、すっかり清められただろう。 「悪い神様(オトコ)に愛されたな、樹貴」  目をまん丸に見開いて、唇を押さえながらも片手で俺の手首を掴んだままの樹貴の顔色に一気に朱がさす。 「神様も、キスとか、するんだ」 「初めてした。なかなか良いものだな」  うなだれて深い溜め息をつく樹貴の耳が真っ赤で、決して本心から嫌がっているわけではないというだけで、胸の奥が満たされてゆく。 「樹貴の絵馬は、もう消して良いな?」  もうあんな悲しい絵馬を樹貴に書かせる事はない。

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