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傷痕
その日の夜。また尻をいじられるのかとハヤテは怯えていたが、アルは何もしなかった。アルの寝室のベッドに入り、いつものようにアルの腕に抱き枕のように抱かれていた。
「今夜は話をしよう」
「?」
ハヤテは不思議そうにアルを見上げた。
「今日の昼間のお前の話は興味深かった。俺は人間の事をほとんど知らない。お前の話が聞きたい」
「え……」
「お前。父親は?」
「父さんは俺が赤ちゃんの頃に狩りに出かけて……熊に殺されたって聞いてる」
「……そうか。母親は?」
「母さんは俺が子供の頃に病気で死んだ。おばあちゃんが俺を育ててくれたんだ」
「そうか」
「いろんな事を教えてくれた」
ハヤテは懐かしそうに金茶の瞳を細めた。
「自分の隣の人を大事にしなさいって。家族や友達を大事にして愛しなさい。そうゆうのが小さなロウソクの光みたいに温かい何かになって世界を包むんだ。みんなが幸せになるんだって言ってた。争い事では誰も幸せにならないから」
今度はアルにハヤテが聞いた。
「村のみんなは獣人を怖がってる。争いが好きで殺し合ってばかりだって」
「国を守る為だ」
「守るって言って殺すの? 戦うと死んじゃう人もいて、仕返しばっかり続いて終わりが無くなるのに。変だよ」
国とは、戦争とは、そう単純なものではないのだが……そう言われると何と答えていいか分からなくなってしまった。
「お前も俺が怖いか?」と、試しに聞いてみた。
「分からない。すごく怖い時とそうじゃない時がある」
「今はどうだ?」
「……今は怖くない」
「そうか」
アルは少しホッとして、ハヤテの黒髪に鼻先をすり寄せた。
「お前がいなくなって、お前の祖母は心配しているだろうな」
アルはハヤテを帰す気は無いが、なんとなくそう呟いた。
「……おばあちゃんはひと月前に死んだよ」
「……そうか」
ハヤテは幼い頃から好奇心が旺盛で、しょっちゅう森の中を冒険していた。獣人に村の場所が見つかれば恐ろしい事になると、何度も村の大人達から勝手な行動はするなと叱られていた。
だから、ハヤテがいなくなったことで大人達はせいせいしているかもしれない。
「……俺、日暮れ前に村を抜け出して、山の上から獣人達の町を見るのが好きだったんだ。町にあかりが灯って、幻想的で綺麗だった」
「町のあかりなんぞ見て喜ぶなんて変わってるな」
「みんなに言われた。獣人の町を見に行くなんて、今に危ない目に合うぞって。そしたら獣人に捕まっちゃったんだ」
ハヤテは眉を下げて、情けなさそうに笑った。
「裸にされたし、食べられるのかと思った」
「食べないと言ってるだろう」
「うん。もう分かったよ。パンとかケバブとかスープとか、ここのご飯は美味しいよ。最初は生肉を食べさせられるかと想像してたけど」
「生肉か……」
アルはウサギのユキの事を思い出した。誰にも話した事の無い苦い記憶だ。
「本当は生肉を食べた事がある」
「えっ!?」
「昔な。父が狩りの土産にウサギを連れて帰った。子供だった俺はユキと名付けて世話をして可愛がっていた」
狼が甲斐甲斐しくウサギの世話をする姿を想像して、ハヤテは笑いそうになったが我慢した。
「俺達黒狼は幼いうちから戦士として鍛えられるんだ。ある日、父はユキを殺して生肉を食うように命じた」
「えっ……なんで!?」
ハヤテは驚いて目を見開いた。
「血の味を覚える為だ。戦争で敵の血に興奮して戦う為。強くなる為に必要だと。何度も吐き出したが、父は俺の口にユキの肉を無理矢理入れて食わせた」
「そんな……」
「だが戦場ではそれが役に立った。俺の初陣は10歳だったが、どんなに過酷な野営地でも、生肉でも泥水でも平気だった。傷を負っても戦い続け、敵の首を食い千切る事も」
10歳。今のハヤテよりもずっと子供だ。ハヤテはアルの話を聞いて胸が痛くなった。
「俺が怖いか? 野蛮だと思うか?」
「……」
アルの体はよく見れば傷だらけだった。ハヤテはそっと胸の傷に触れて言った。
「……かわいそうだよ」
「かわいそう?」
「ウサギのユキも、子供の頃のアルも。そんなことしなくちゃいけなかったアルのお父さんもかわいそうだ」
ハヤテは潤んだ瞳で傷痕をじっと見つめている。
アルは不可思議な感情に揺れていた。この小さな人間の少年はアルの事を憐れんでいる。
憐れまれるなど弱い者がされる事だ。弱さなど許されない。ましてやひと撫でで命を奪えるほど貧弱な人間の少年に憐れまれるなど、屈辱でしかない。
だが、ハヤテに「かわいそうに」と、小さな指で優しく触れられる事がひどく心地よかった。
自分のために金茶の瞳に涙を浮かべるハヤテに胸が温かくなった。
アルの瞳は金色だ。少し似ているが、ハヤテの瞳は優しい色をしている。素朴な田舎の麦畑のような穏やかな色だ。
「ごめん。俺、酷いこと言った。生肉食べただろって。アルは好きで食べたんじゃなかったのに」
ハヤテの言葉にアルの胸がチクリとした。小さなトゲのような痛みだった。
「……もっと撫でてくれ」
そう言われてハヤテはアルの耳の後ろや額、鼻筋を撫でた。温かな毛皮にモフモフと触れていると気持ちが良かった。
アルは心地良さげに目を閉じて、ハヤテの小さな手に触れさせ続けた。
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