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ファイサル
ファイサル元将軍の屋敷を訪ねたアルを人間の青年が出迎えてくれた。
「どなたですか?」
「アル・ハタルだ。ファイサル将軍に会いたいのだが……」
「ああ! お話は聞いています。どうぞ、入って」
茶色い髪と瞳の青年は笑顔でアルを招き入れた。リビングに通され、座って待っていると懐かしい声がした。
「アル。久しぶりだな」
「ファイサル将軍」
立ち上がったアルに「将軍はお前だろう」と笑って、座るよう促した。
ファイサルは杖をついて脚を引きずるようにして歩いており、傍らには彼を支えるように人間の青年がいた。
「紹介しよう。ハルキだ。私のパートナーだ」
アルは驚いて目を見開いた。ファイサルははっきりとこの人間をパートナーと言ったのだ。
「お前も人間と暮らし始めたとテオスから聞いたぞ」
「……あの方は苦手です」
ハルキが眉を顰めて言った。
「あいつめ。散々セクハラ発言して帰ったからな」
ファイサルは楽しそうに笑っている。穏やかな笑顔だ。こんな顔は初めて見た。
最後に見た時は、戦えなくなった事で苛立ちと苦悩に満ちた表情をしていたのに。
ファイサルを将軍の座から引きずり下ろしたのはアルだ。ファイサルはまだ戦えると言ったが、戦場で足手纏いになればファイサルだとしても殺さねばならない。
例え恨まれたとしても、アルはファイサルを死なせたくはなかった。
「ハルキ。少しふたりにしてくれるか?」
「はい」
ハルキが席を外してから、ファイサルはアルを見て聞いた。
「お前が訪ねてくれて嬉しいが……どうした? こんな私を見たくはないだろう」
「……そんな事は」
「お前が暮らしているという人間の事か?」
ファイサルは面白そうに笑っている。
「貴方が引退した時、もう戦えないと酷く荒れていらっしゃいました。正直、俺は弱った貴方を見たくはなかった。それに貴方は俺を憎んでいるかと思っていた。でも今の貴方は……とても穏やかだ」
「……そうだな」
「テオスが言ったように、人間と暮らしているからなのですか?」
「テオスがどんな風に話しているかは知らないが、私が心穏やかにいられるのはハルキのおかげだ」
「……何故です?」
「そうだな……お前も私も黒狼だ。幼い頃から戦う事を学んできた。他の狼達とは違う。我らを野蛮だと蔑む者もいるが、戦う事は我らの誇りだ」
そうだ。特にファイサルは戦う為に生まれてきたと言われていたほどだ。
「だから戦えなくなった時、私は自分の存在価値を失ったのだ。戦えない黒狼などただの駄犬だ。何もかも無意味で、空っぽになってしまった。だが、ハルキに出会った」
ファイサルは優しげに目を細めた。
「彼は私を労わり、優しく傷を撫でてくれる。弱さ、憐れみ、優しくされる事など我らにとって侮辱に近い。だがどういう訳か、ハルキに優しくされると心が穏やかになる。傷に触れて「大丈夫?痛かったでしょう」と優しく言われると、すっかり彼に甘えてしまう」
アルはハヤテに撫でられた事を思い出していた。
「ああ、もう戦わなくていい。殺す必要は無いのだと思わせてくれた」
戦えないのではなく、戦わなくていいとファイサルは言った。その言葉にアルは衝撃を受けた。黒狼は戦う事が宿命だ。
休戦協定によって戦う必要の無くなったアルもジレンマを抱えていたのだ。「戦わなくていい」などと思う事は出来なかった。
「ただのファイサルに戻って、好きな事をして生きるのもいいと思わせてくれた。ハルキはそれを許してくれる。どんな私でも受け入れてくれた。だから、戦えなくなったと嘆く必要など無いのだよ」
「……でもそれでは、黒狼としての誇りは? 我らは国を守る為に戦わなくては……」
「誇りは自分自身の中にある。黒狼であろうとなかろうと、己自身を誇りに思えばいい。軟弱だと言う者もいるが、新しい王は戦を避ける交渉術に長けている。しばらくは平和な時代があったっていいじゃないか」
ファイサルは静かな瞳でアルを見つめて言った。その言葉はアルの心に染み渡っていった。
───無性にハヤテに会いたくてたまらなくなった。
「夕食を一緒にと思ったが、それはまたの機会にしよう。アル。会えてよかった。また来てくれ」
ソワソワしだしたアルを見て、ファイサルが悪戯っぽい目をして言った。
「俺も会えてよかったです。また……」
アルは立ち上がり、ファイサルに会釈をして出て行った。屋敷に戻り、早くハヤテに触れたかった。
ハヤテは昼寝から目覚めて、召使いにアルは出かけていると聞いた。眠気も覚めたので、リビングでお茶を飲みながら読みかけの本を開いた。
人間の出てくる物語で面白かった。獣人の作家が「人間とはこんな生活をしているのだろう」と、想像して書いているのだ。
人間とはへそが二つあり、尻尾の代わりに尻の骨が飛び出しているだとか、朝起きたら逆立ちをして頭の血を下げるのが日課だとか、手は使わずに頭突きで闘うだとかでたらめばかりだ。それが逆に面白かった。
しばらく本を読んでいると玄関が騒がしくなった。ハヤテは顔を上げて声の方を見ると、灰色の獣人がリビングに入ってきた。
「久しぶりーって、覚えてないか。あの店のオークション会場に俺もいたんだよ。アルの友人のテオスだ」
「……」
「随分小綺麗になったじゃん。アルに可愛がってもらってるんだね」
ズカズカと入ってきて一方的に喋るテオスをハヤテは唖然と見上げた。テオスの後ろで召使いがオロオロしていた。
「あの、アル様はまだ戻っていらっしゃいませんので……」
「おかまいなく。俺はこの人間に相手してもらうから、あんたは下がってていいよ」
「ですが……」
「下がってろって言ってるだろ」
少し低い声でテオスが命じた。召使いはビクリとして、ハヤテの事を気がかりそうに見ながらもリビングを出て行った。
「お前。字が読めるの? すごいね」
テオスは笑いながらハヤテに近付く。嫌な感じがして、ハヤテはソファから立ち上がった。テオスはニヤニヤ笑いながら、本を持ってパラパラとめくった。
「面白い?」
「面白いよ。人間の事、でたらめばっかり書いてある」
「へぇ。本当の人間ってどんなの? 教えてよ」
「その本読んだら? 俺は部屋に戻るから……」
じりじりと後ろに下がるハヤテをテオスはじっと見ている。
「怯えんなって。変な気持ちになっちまうだろ」
「こっち来んな!」
「あ~。いいね。俺ら獣人を煽るのが上手い。あのアルがハマったのもちょっと分かるなぁ」
この獣人は舐めるようにハヤテを見ている。ハヤテはじっとりと嫌な汗をかいた。獣人にはアルと召使いで慣れたと思っていたが、目の前にいるテオスにハヤテは怯えていた。
「ああ、この汗の匂い。美味そうだ。怯えながら睨んでくるのもいいね。なぁ、どんなふうにアルに可愛がってもらってんの? アルが帰ってくるまで、ちょっと俺と遊ぼうか」
テオスはニッと乱杭歯を見せて笑った。
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