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episode.5-5

やり直した世界には、目前の相手は居ない。 必死に掴んだ居場所も、年月を共にした仲間も。 「なあ、この先はどうしたい」 落ち着いた低音が鼓膜を震わせる。 「此処に留まるのも、元居た場所に帰るのも、好きな所へ旅立つのも勝手にしろ。お前は今なら、何処へだって行けるんだから」 そう、何の枷も無い。 誰も咎めない。 「…お前は自由なんだ、萱島」 けれど古い記憶は消せない。 幾ら新しいものを塗り重ねようと、何時までもキャンパスの下地として。 ただそれすらも味わいに昇華し、人は己の作品を完成させる。 今はどんな色だって使える。 どんな筆だって。 心地良い台詞と声を耳に、萱島に仮初であれ久方振りの安寧が訪れる。 それはやがて睡魔を伴い、目を閉じた。 徐々に意識は遠退き、深く沈んだ。 底へ潜り込み、ドロドロと薄暗い。 何時の間にか忘れ去られた、記憶の奥を彷徨っていた。 「――こんの糞ガキが!帰にさらせ阿呆!」 衝撃で視界がぶれるも怯まない。 間髪入れず蹴りを返せば、男のくぐもった呻きが漏れた。 「…ッおんどれ…頭にドスうわさるぞ…」 「その辺にしときなさい菱田」 「げっ、しもた」 タイマンの渦中。鶴の一声が遮り、菱田を諌めた。 視線の先には鷹の如く鋭い相貌。 さっと身を起こし、走り寄る男に関係が知れる。 差し詰め、ヤクザの親分が乱入したという具合だろう。 「せやかて…このガキがワシの財布…」 「劣勢で吠えるものじゃない」 その親分――後に、指定暴力団傘下と知る――黒川は、今度は興味深げに菱田を追い詰めた萱島を見ていた。 学生服に身を包み、射殺しそうな目つきの青年。 最近の子供は怖い。 その威力の背景を察し、つい眉根を寄せてしまう。

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