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episode.6-6

「…戸和がぶった」 エントランス手前のロビー。 携帯を手に煙草を吸う社長の傍ら、萱島が悄然と呟いた。 ノータッチで紫煙を吐き、視線は液晶から外さない。 反応の無い雇用主に、萱島は今一度繰り返した。 「戸和がぶった」 「ん?」 「戸和が…」 「…」 「…」 社長は漸く携帯を仕舞って面を上げる。 「悪い、何だって?」 一体何度言い直せば聞いてくれるのか。 どんどん落ち込む萱島は、冒頭の勢いが完全に削がれている。 流石雇用主とも言うべきか。短い期間で、神崎は相手の扱い方を完全に心得ていた。 「…と、とわが」 「分かった分かったごめん、泣くなよもう」 大きな手が適当に髪を掻き混ぜた。 首を擡げ、恨みがましい目が利き手を見据える。 「何…戸和がぶったって?それはお前、ぶたれる様な事をするからだろ」 「それはそうですが…」 「しかしアイツが手を上げるなんて珍しいな。何したんだ」 神崎が指先でメンソールを弄ぶ。 部下は黙り込み、今度はばつが悪そうに答え倦ねている。 「うわ何…そんな言えない事を…」 「なっ、ち、違う!何だ言えない事って…いやそうじゃなくて…だから…最近その、戸和くんの隣に居づらいというか…」 「ほう?」 「気になると言うか…」 「……」 飄々と流していた社長の挙動が止まった。 萱島はその態度に漸く、己の失言に気付いて青褪めた。 「おい何だその面白そうな話…社長そういう話は大好きだから、君の気の済むまで語りなさい」 「…もう良い、社長になんか聞いて欲しくない」 「つれない事言うなよ沙南…嫌いになったか?」 微笑む神崎を横目に捉える。 何処までも自由に生きる、掴み所の無いその様が少し恨めしい。 自然、肩の力が抜けてしまった。 根拠は知らないが、嫌いになんてなれる訳が無かった。 「じゃあお前の機嫌取りにランチでも行くか」 煙草を消火し、立ち上がる姿を見上げる。 どうせならうんと高い店を選んでやろう。 大した痛手にもならない、下らない八つ当たりながら、もう頭の中は店の選定へ夢中になっていた。

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