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episode.7-4

「お前上着は?」 勝手に電話を切る男を無視する。 「着て来いって言ったろ」 呆れた声に顔を背けた。 蛍光灯を数えながら歩を進め、次第に憂鬱さが増した。 数分もしない内に現場が近づく。 神崎が自分の社員証を通し、更にテンキーを打つ。 ポケットに手を入れ、地面を睨んだ。 子供の様な所作を見て、振り向いた相手が首を傾けた。 「…やめとくか、沙南」 変わって優しい声音に唇を噛む。 隣へと追いつき、答えに代わって鍵の開いた扉を自ら押した。 金属製の板が重苦しく唸る。 打ちっぱなしのコンクリートが、白い蛍光灯を跳ね返す。 その部屋の隅に、男は居た。 いつもと同じ乾いた目で、見慣れた嘲笑を携えて。 「――…誰かと思えば」 掠れた声が反響し、萱島の全身が強張る。 両手を拘束された霧谷が、ゆっくりと首を擡げていた。 「愛しの恋人じゃないか…何か言う事があるだろ、こんな所に監禁しやがって」 至る所痣だらけだが、大事には至っていない様だ。 その卑しい笑みに、萱島の瞳孔がぶれ始める。 つい連動して“あの家”の記憶が溢れ出す。 壁の匂いすら湧き上がり、冷や汗と動悸が異常を訴えていた。 「せっかく忘れてる様だから、忠告してやったのに」 霧谷は切れた唇から吐き捨てた。 「溝から生まれた塵がマトモに生きれると思ってんのか」 「…思ってない」 霧谷の追求を、手を伸ばしかけた神崎を、萱島の声が遮る。 「思ってない…けど、そうなりたいって思う」 「なりたい?…だから何だ」 悔しいことに、正視は出来なかった。 それは再び過去に引き摺られる事を恐れてなのか、それともこの男を。 ともすれば、これまでの過去を喪う事を。 「なりたかろうがなれない。その痛みこそ、俺とお前が何年も掛けて理解して…」 「痛いよ…知ってる。でもそれは、次に繋がる痛みだから」 言葉にするのが怖い。大事な何かが消える気がする。 けれど、負けるものかと萱島は言葉を叩きつけた。 「前に進む事は、痛いから」 霧谷が双眼を見開く。 漸く現実を見た、その唇が戦慄いた。 「お前とずっと過去を生きて、微温湯なら…他に何処も行けないから」 此処へ来て萱島は蘇った。死んでいた五感を、取り戻していた。 それはこの男と居たなら到底辿り着けなかった。 寧ろ目を背けていた、未来の世界だ。 「…だからもう、お前には関わらない。さよなら霧谷」 そうして静かに背を向けた。 揺るぎない後ろ姿で、萱島は突き刺さる霧谷の視線を受け止めた。

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