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episode.9-4

この微妙な空気をどうしてくれよう。 冷や汗でも垂らしそうな矢先、タイミングが良いのか悪いのか。廊下からは新たな足音がやってくる。 追って現れたのは神崎だった。 雇用主は妙な空気に首を捻った後、無言で青年と距離を詰め羊皮紙を突き付けた。 「ほい、読め」 受け取った戸和が目を走らせる。 丁寧とは言い難い筆記体の羅列、どうにかタイトルを拾って読み上げた。 「…“Dismissal Notice(解雇通知)”」 萱島の肩がぴくりと反応した。 黒い双眼が下へと紙面を伝う。 最下段には一際汚い字で署名がしてあった。 “Ronald Taylor” 隣にはインクたっぷりに、血判まで押されていた。 「これで現時点で生きた契約は俺との間のみ。因みに雇用期間の定めが無い場合、うちの規定で予告期間に要するのは6ヶ月」 あれ、そんなに長かったっけ。 眉間に皺を作ったものの、萱島は黙っておいた。 「分かったら明日からも宜しく」 「…冗談でしょう神崎社長」 「何…?お前…まさか本当にどっか行くつもりだったのか、ふざけろ、俺の会社を潰す気か」 今度は戸和が眉を顰めた。 大袈裟な。 「身元を偽った人間を雇用するんですか」 「俺が良いって言や良いんだよ」 「職員に説明すれば反対が起こる」 「起こる訳無いだろ馬鹿、いいかお前が如何に…」 社長は其処から萱島が言おうとした様なしていない様な、彼の有用性について只管に語り始めた。 相対する青年は、渋々と言った風に耳を傾けている。 頑張れ社長。最後は法で囲い込め。 既に放棄して見守る萱島の隣に、追い付いた本郷が姿を見せた。 「何だ、未だ話ついてないのか?」 「事はそう簡単では無いようで」 ぼんやりと揃って両者を眺める。 其処で漸く親友の帰還に気が付いた、神崎は振り向くや、今度は矛先を変えて本郷に噛み付いた。 「遅い!お前もさっさと何か言ってやれ早く」 「うるせえ、指図すんな」 「本郷さんお願い」 「……」 じっと見詰める萱島に辟易する。 部下の頼みには素直な故、次には青年へ向き直った。 「お前辞めんのか戸和」 「ええ、まあ」 歯切れが悪い。 対して本郷はさらりと、事も無げに言った。 「辞めたってお前、他見つけた訳でも無いんだろ。別に居りゃ良いじゃねえか」 「…そうですね」 「ちょちょーい!待たんかい…!」 静観していた萱島が勢い良く立ち上がった。 「俺があんなに長文使って靡かんのに、何をそんなふわっとした提案で了承してんだあほ!」 「どっちなんですか」 「お前じゃない義世がクソ過ぎる、いつもクソだけど」 「あんだと」 「社長、萱島さん」 凛とした青年の声に、掴み合いを始めた経営者らも留まる。

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