174 / 186

episode.9-8

「ワシは退いた方がええんですかい」 「教育係は居なさい」 迷った末、萱島は入り口の手前で立ち尽くした。 上着を付きの者に預けた黒川が、ふと客人を見て笑んでいた。 「お前、良い顔をする様になったね」 「…はい?」 床に向いていた視線を上げる。 「そんなに子供みたいに不満を露わにしているのを初めて見た」 顔に出ていたのか。 決まり悪そうに咳払いをした。 「ご用件は」 「勿論、お前の今後について」 「俺の?」 「お前がウチ帰ってくんのか、向こうおるんかゆう話や」 菱田が煙を吐き出した。 増々意味が分からず、萱島は眉間の皺を深くする。 「その…正規雇用と伺いましたが」 「そういう契約の話じゃなく、お前の意向の話をしているんだよ」 「え、そんな俺の意思が優先されて良いんですか」 「別に私に君の人生を決める権利は無いよ」 暴力団の長らしからず。 黒川はあっけらかんと肯定した。 「欲を言えば居て欲しいとは思うけどね」 「けど…俺を、拾って下さったのは…貴方で」 其処でつっかえ、口を噤んだ。 あの日から今日まで、親と呼び慕った男の相貌を見やった。 異国の言語を、口に出来て漸く聞き取れる様に。 人は他者に情を抱く側になって、初めて向けられたそれに気付く。 ただの取り巻く要素でしか無かった2人の眼差しが。 むず痒い程に、今は温かみを帯びていた。 確かに黒川のやり方は、命綱無しで崖から突き落とした様なものだ。 銃を握らせ、殺しを覚えさせ。 それでもその不条理を知らなければ、苦しい道を知らなければ。 自分は縋る痛みすら持たず、ただ屍の様に路頭へ迷っていたのかもしれない。 「お前、最近楽しそうやの」 考え込んでいた最中、ソファーに仰け反った菱田が出し抜けに呟いた。 「こんな廃れた業界や、若い同年代と接する機会もあんま無しに…このままデカなってええポスト行くんやろうけど、詰まらん人生やろなあて」 天井を見上げてぼやく、男の独白を萱島はただ黙って伺った。

ともだちにシェアしよう!