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episode.9-9
「詰まらん人間なって、何も手に残らんまま死ぬんやろ思とったわ。ワシはガキの考えなんや知らんし、ほったらかしてもうたけど」
100ミリのライトメンソールが灰皿に押し付けられた。
音も無く、赤い火が揉み消される。
「何やお前、自分で大事なもん見つけたんちゃうん」
菱田の台詞にはっとした。
柄にもない、思い出しては胸を熱くする存在が、言う通り数えきれないほど生まれていた。
「ほなら死んでも離しなや。後悔せんように」
頭を掻く。
当初よりも老けたその顔を、頼もしいとすら思う。
「…はい」
すっきりとした色で、惑い無く。
漸く簡潔に答え萱島は旅立ちを決めた。
その返事を聞くや、傍観していた黒川がやれやれと腰を上げた。
「寂しくなるねえ。お前が抜ければ何かと面倒な事になるから、籍は残しておいてくれるかい」
「貴方が御望なら勿論」
「有り難う、仕事中に済まなかったね。もう戻りなさい」
姿勢良く萱島は頭を下げた。
踵を返す手前、黒川が思い出した様に付け足した。
「ああそうだ菱田、お前の目出度いニュースは」
「え、いや…しゃあかてそんなん萱島が聞いても…」
ノブに手を掛けたまま首を傾ける。
己を待つ両者に、菱田は観念してもごもごと告げた。
「まあその…先週、長男が生まれたんやわ」
純粋に驚いた。
夫人が妊娠しているとは聞いていたが。
「…本当ですか?」
萱島の声が喜色を帯びる。
「良かった、おめでとう御座います」
衒いなく、自然に表情を綻ばせた。
目前の表情へ、菱田は唖然として言葉を失った。
今は祝辞だけを伝え、会釈を残して去る。
彼の消えた部屋で、未だ金縛りにあった菱田は零していた。
「アイツ…」
焼き付いた笑みが離れない。
「あんな生い立ちやから、何も言わん思てました」
「ふむ」
顎を撫で、黒川は口端を緩めた。
「価値観を変える程の出会いが、何処かであったのかもね」
人生とは得てして千変万化だ。
だから素晴らしい。
そして人間も然り。
擽ったげな菱田を見やり、事務所の長は愉快そうに笑った。
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