175 / 186

episode.9-9

「詰まらん人間なって、何も手に残らんまま死ぬんやろ思とったわ。ワシはガキの考えなんや知らんし、ほったらかしてもうたけど」 100ミリのライトメンソールが灰皿に押し付けられた。 音も無く、赤い火が揉み消される。 「何やお前、自分で大事なもん見つけたんちゃうん」 菱田の台詞にはっとした。 柄にもない、思い出しては胸を熱くする存在が、言う通り数えきれないほど生まれていた。 「ほなら死んでも離しなや。後悔せんように」 頭を掻く。 当初よりも老けたその顔を、頼もしいとすら思う。 「…はい」 すっきりとした色で、惑い無く。 漸く簡潔に答え萱島は旅立ちを決めた。 その返事を聞くや、傍観していた黒川がやれやれと腰を上げた。 「寂しくなるねえ。お前が抜ければ何かと面倒な事になるから、籍は残しておいてくれるかい」 「貴方が御望なら勿論」 「有り難う、仕事中に済まなかったね。もう戻りなさい」 姿勢良く萱島は頭を下げた。 踵を返す手前、黒川が思い出した様に付け足した。 「ああそうだ菱田、お前の目出度いニュースは」 「え、いや…しゃあかてそんなん萱島が聞いても…」 ノブに手を掛けたまま首を傾ける。 己を待つ両者に、菱田は観念してもごもごと告げた。 「まあその…先週、長男が生まれたんやわ」 純粋に驚いた。 夫人が妊娠しているとは聞いていたが。 「…本当ですか?」 萱島の声が喜色を帯びる。 「良かった、おめでとう御座います」 衒いなく、自然に表情を綻ばせた。 目前の表情へ、菱田は唖然として言葉を失った。 今は祝辞だけを伝え、会釈を残して去る。 彼の消えた部屋で、未だ金縛りにあった菱田は零していた。 「アイツ…」 焼き付いた笑みが離れない。 「あんな生い立ちやから、何も言わん思てました」 「ふむ」 顎を撫で、黒川は口端を緩めた。 「価値観を変える程の出会いが、何処かであったのかもね」 人生とは得てして千変万化だ。 だから素晴らしい。 そして人間も然り。 擽ったげな菱田を見やり、事務所の長は愉快そうに笑った。

ともだちにシェアしよう!