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【2】

 極度のストレスからか、やや過呼吸気味になったまま輝流が恐る恐る薄目を開けてみると、鏡の様に磨かれた大理石の床に硬い靴音が響いた。  その足音が輝流のすぐそばでピタリと止まった。 「――晴也さま。ここをどこかとお間違えではありませんか? ここは神聖な学校であり、貴方がペットと戯れるドッグランではありませんよ。このような場所で欲情するとは、どこまではしたないお方ですか」  強烈な畏怖を秘め、それでいて凛とした低い声に、輝流はこれ以上ない安心感を覚えた。  傍らに立っていたのは輝流が最も信頼をおく男――駈だったからだ。 「貴様……。どうしてここにいる!」  牙を剥き出して叫ぶ晴也に対し、至って表情を変えない彼は呆れたように小さくため息をつきながら答えた。 「輝流さまのお迎えに参りました。主の叫び声に急いで来てみれば……。貴方も野宮の血を継いだ方ならお分かりでしょう。稀有な狼一族の血を守るとはいえ、近親間の交わりは禁忌とされていることを」 「くそっ! 同族でもないくせに偉そうなことを言いやがって! それになぜ、貴様のような執事風情にあの会社を乗っ取られなきゃならないんだ。あれは兄貴の資産だ。お前のモノじゃないっ」 「お言葉を返すようですが、乗っ取ったわけではありませんよ。私は旦那様のご遺志を継いだまでです。弁護士立ち合いで書かれていた遺言状、貴方もその目でご覧になったはずです。むしろ、貴方にお任せしていたら……と思うとゾッとします」  抑揚なく言い放った駈は輝流を腕の中に抱き込むようにして立たせると、晴也を睨みつけた。  その目はどこまでも冷酷で、何者をも寄せ付けない畏怖さえ感じられた。  人当たりの良い、優し気な笑みを浮かべる駈はどこにも見当たらなかった。  駈の腕に抱き込まれ、濃紺のスーツの上着に頬を埋めた輝流は、ふわりと香る香水の匂いに発火しそうなほど体が熱くなるのを感じて、ガタガタと身を震わせた。それは恐怖や不安からくる震えではなかった。  縋るようにして皺になるほどジャケットを強く掴んでいる輝流に気が付いた駈は、それまでの晴也の凶行を許すことは出来なかったが、早々に引き揚げた方がいいと判断し、あえて晴也に分かるように白々しくため息をつきながらも敬意を払った。 「――では、これで失礼いたします。今日の事はここだけのお話に留めておきます。今後、輝流さまに手を出すようなことがあれば、こちらの独断で法的措置を取らせていただきます」 「なにぃ! そいつは俺の甥だぞっ。他人のお前にとやかく言われる筋合いはない」 「他人でも、私はあなたとは違う……。彼も私とは違うようにね」 「なんだと……っ」  牙を剥き出したまま憤怒する晴也を横目に歩き出した駈は、輝流の背に回した手に力を込めた。 「――大丈夫ですか? 輝流さま」 「駈……。怖かった……。俺、変だ……Ωの匂いがするって。熱い……体が、熱い……っ」 「急いでお邸に戻りましょう。すぐに楽にして差し上げます」  輝流を気遣いながらも足早に歩み、裏口の扉を開け放って数段の階段を下りる。外灯が照らす近くの駐車スペースに待機させていた車に素早く乗り込むと、駈は運転手に鋭い声でマイク越しに伝えた。 「至急、邸へお願いします!」 「わかりました」  普段は冷静な駈が声を荒らげたことで、運転手にも緊急性が伝わったようだ。  短い返事を返した後でアクセルを踏み込み、巧みなハンドルさばきで車をUターンさせ構内を横切ると、メイン道路へと向かった。  自らの膝を枕代わりにし、輝流の体を横たえた駈は上着のポケットから取り出したスマートフォンでアドレスを呼び出すと、迷うことなく発信ボタンを押した。  数回のコールの後で相手が電話に出てくれたことにホッと胸を撫で下ろした。 「――駈です。予期していたことが起こりました。今、邸へと向かっています」 『そうか……。安心していい。あとは私が取り仕切る』  掠れてはいるが強い意志のある声に、駈はふっと口元を綻ばせた。  声の主は駈の父親である日野(ひの)章太郎(しょうたろう)だ。  執事長を駈に譲った今、家令として実業家として家を空けることの多い駈に変わって、野宮家の留守を預かっている。  今は邸にいるであろう章太郎に、駈は執事長として的確な指示を出した。 「あと二十分ほどで到着すると思います。私たちが入ったら邸内のセキュリティを最高レベルに上げて下さい。誰も邸に近づけないように。あと……取り次ぎも一切断っていただけますか?」 『了解した。――輝流さまのご様子は?』 「手持ちの抑制剤を服用させますが、長くは抑えておくことは出来ないでしょう。すでに発情期を迎えてしまいましたから……。父上、この事は他の使用人には他言無用でお願いします」 『そんなことはお前に言われなくても分かっている。駈……お前は大丈夫なのか?』 「――いいえ。正直なところ、彼の発する甘い匂いで気が狂いそうですよ。私の方がそう長くは持たないでしょう……」 『運命が……動き出すぞ』 「ええ。待ち望んでいた時がやっと来たんです。興奮してこの場で滅茶苦茶にしてしまいそうですよ」  冗談交じりにおどけてみせた駈ではあったが、それが彼の本心であったことは言うまでもない。  電話の向こう側では章太郎が小さく吐息し、その後で実に落ち着いた声音で言った。 『絶対に他人に知られてはならない事ゆえ、邸まで我慢しなさい。ただ……彼にすべてを明かす時が来たことだけは忘れないで欲しい』 「分かっています。これまで彼の人生を狂わせてきたのは私のワガママ――いや、両親のワガママですからね。責任はきちんと果たす所存です」  駈は苦しそうに呼吸を繰り返す輝流の髪を梳きながら通話を終了させた。  スマートフォンをポケットに仕舞った時、輝流が顎を上向けて唇を震わせた。 「駈……。まだ……なの?」  微かに声を上げた輝流の口元に耳を寄せ、柔らかな髪を撫でてやる。  普段は強気な高校生であるが、今は熱にうかされ、うわ言のように駈の名を呼ぶ幼子だ。 「もう少し我慢出来ますか?」 「はぁ……はぁ……く、るしぃ……よ」 「輝流さま……」  駈は運転席と後部座席を隔てるスモークガラスに目を向け、運転手からルームミラー越しに見えないように、輝流の頭を抱き込むように腕で囲った。手探りでポケットの中から取り出した錠剤を自らの口に含むと、戦慄く彼の薄い唇に重ねた。 「むふ……っ」  今まで誰にも触れさせたことのないその唇を貪るように何度も啄み、隙間から舌を差し込んで、逃げる彼の舌を絡めとると深く愛撫する。  唇の端から溢れる唾液さえも愛おしい。  それを水音をたてないように啜り、輝流の小さな喘ぎ声と一緒に呑み込んだ。 (輝流さま……)  錠剤を呑み込んだことを確認し、唇をそっと離していく。抑制剤の中でも即効性のある錠剤ではあるが、突発的な症状を抑えるだけのもので長時間は持たない。  駈には輝流の体調の変化の理由が分かっていた。  彼の放つ甘い花の匂いは間違いなくΩが発するオスを引き寄せるフェロモンであり、息も絶え絶えに発熱している体はまさしく発情期の訪れを意味していた。  αである輝流がなぜ発情するのか……。それを知るのは輝流の両親と駈、そして駈の両親だけだ。  輝流の甘い唾液に触発されたのか、彼を乗せている膝の間に先程から感じている違和感――それは駈のペニスが反応している証拠だった。  名残惜しそうに唇を離したあと何度も生唾を呑み込み、疼く歯を食いしばりながらも、輝流を撫でる手はどこまでも優しく優雅だった。  輝流の制服のネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外すと白い首筋が露わになり、そこからむせ返るような甘い匂いが広がった。  運転手がその匂いに気付き一瞬眉を顰めたが、駈は「香水に酔ったのかもしれませんね」と彼を牽制しつつ邸へと急がせた。  野宮邸の門を抜け、玄関前の車寄せに車が停車するなり、駈は眠ったままの輝流を横抱きにして車を降り、開かれた扉の中へ駆け込んだ。

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