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【6】

「行ってらっしゃいませ」  多くの使用人に見送られ、輝流と駈は送迎用の車に乗り込んだ。  首筋の傷はまだ完治していない。四日も学校を休んだことに罪悪感を感じていた輝流は、まだ怠い体を引き摺りながらも登校する事を決めた。  理由が理由だけに、これ以上仮病を使って休むことは憚れたのだ。  もちろん、駈は止めた。だが、輝流はそれを強引に押し切った。 「――体調が優れないようでしたら、すぐに連絡をいただけますか?」 「……」 「輝流さま?」 「――俺の体だから。お前に心配される筋合いはない」  チャコールグレーのスーツに身を包んだ駈は、始終不機嫌で応答も投げやりな輝流に小さく吐息した。 「貴方だけの体ではないから言っているんです」 「あのさ……。その執事ヅラ、もうやめたら? 本性分かってるんだからさ。いちいちムカつくんだけど」  昨夜、輝流の前で露わにした鮮やかなブルーの瞳の狼――それが駈の本当の姿だ。  息を呑むほどに美しく、そして畏怖を纏う野宮家の当主。 「まだ――貴方は野宮家の当主ですから。手続きが終わるまで、私は貴方の従者です」 「じゃあ、さっさと手続きしろよ。俺は当主なんかじゃないんだから……。お前の子を孕むだけの、ただのメス犬だからな」  半ば自暴自棄になりながらそう言った時だった。  大きな手でいきなり首を掴まれ、顎を力任せに上げられた。すぐそばにあった冷酷な黒い瞳が薄っすらと青みを増していく。  首に添えられた手に力が込められ、徐々に気管が締め付けられる。 「今のは聞き捨てならないな。誰がメス犬だと言った? 言ったヤツを俺の前に連れて来い。その場で噛み殺してやる」 「駈……く、くるし……ぃ」 「まさかとは思うが、お前自身がそう思っているわけではあるまい?」  薄い唇を皮肉気に曲げて低い声で唸った駈は、輝流の唇を容赦なく奪った。 「ふぐ……っ」  乱暴に舌で口内を愛撫され、飲みきれなかった唾液が唇の端から溢れた。  それを拭うことも許されないまま、駈の貪るようなキスに翻弄された。全身の力が抜けていき、甘い唾液が口内に流れ込み、それを飲み下すたびに腰の奥がジン……と熱くなっていく。  ワイシャツの襟に隠れている噛み痕が甘く疼き、知らぬうちに駈の背に手を回していた。  強引なだけのキスなのに抗うことができない。銀色の糸を引きながら離れた彼の口元をうっとりと見つめ、力なく回していた腕を落とした。 「――キスで、俺を籠絡させようとか……。やり方が汚いんだよ」  唾液で濡れた唇をぐっと拭って、駈を思い切り睨みつけた。  彼はブルーの瞳をすっと細めて、口角を片方だけ上げて笑った。 「本能が求めていることにまだ気付かないのか……」 「俺は狼なんかじゃない! その証拠に、お前のチ〇コについてるコブ、俺にはないからっ!」 「亀頭球か……。あれはオス特有のものだ」 「それって、俺がメスだって言ってるようなもんじゃないかっ!――もう、お前とは何も話したくない」  輝流が視線の端で学校の正門を捉えたとき、駈を押し退けるようにして窓の方に顔を向けた。  車内に充満する駈の匂いに目の前がクラクラする。  さっきのキスで欲情し、香りを発したようだ。 (どんだけ欲求不満?)  輝流の下腹を膨らませるほど吐精したにも関わらず、まだ足りないとでも言うのだろうか。  人狼の性欲には輝流も呆れていた。  何より輝流が気になっていたのは、あのセックスには愛があったのかどうかという点だ。  駈は処女である輝流を傷付けることなく大切に扱ってくれた。しかし、それは子を成すためだけ、自分と番の契りを結ぶためのパフォーマンスだったのでは……と思えて仕方がない。 「愛している」と口で言うのは簡単だ。想いがなくとも言葉では何とでも言える。 「到着いたしました」  運転手からのアナウンスで、駈が先にドアを開けて下りると輝流の手をとった。 「触るな……。帰りは来なくていいから。俺、直接運転手に連絡する」  触れた手を振り払った輝流は、駈に背を向けたまま言った。 「輝流……」 「顔、見たくないんだよ。ムカつくから……っ」  それだけ言い残すと、クラスメイト達から掛けられる心配する声と挨拶の波に呑まれていった。  輝流の背中が見えなくなるまで見送った駈は、払われた手をギュッと握りしめた。 (これで良かったはずだ。自分は間違っていない……)  彼がどう足掻こうと、番の契りを交わした事には変わらない。いずれ輝流は否が応でも自身の運命を受け入れることになる。  駈の中にある十七年間の輝流の記憶が蘇っていく。愛らしい笑顔で話し掛ける彼ばかりが浮かんでは消えていく。あの日以来、笑顔を向けてくれることはなくなった。  自分が求めていた愛情と幸福。彼との間に出来た温度差と亀裂。  現実を受け入れさせるためには甘えさせてはいけない。でも……この腕に抱いて蕩けるまで甘えさせてやりたい。  輝流だけでなく、駈の運命の歯車も動き出していた。  すべてが順調に行くはずだった現実が、渋い音を立てて今にも止まってしまいそうだ。  一度動き出した運命は、もう誰にも止められない。まして、戻ることは出来ない。 「輝流……」  最愛の男の名をそっと呟き、駈は目を伏せたまま車に乗り込んだ。  章太郎に任せていた経営業務にそろそろ戻った方が良さそうだ。そうでもしていなければ耐えられない。  輝流に拒絶された今、そちらに打ち込むしか逃げ場はない。 「結局、逃げているだけじゃないか……」  自嘲気味に呟いて、駈は運転手に声をかけた。 「帰りは輝流さまから直接、貴方の方に連絡があると思いますので、よろしくお願いします」 「え? 執事長はご一緒ではないのですか?」 「――ええ。私は社長業の方が忙しくなってきているので」 「そうですか……。分かりました」  腑に落ちないという顔で首を傾けた運転手をルームミラー越しに軽く睨む。  どこに行くにも輝流に同行していた駈が突然こんなことを言い出した事を不審に思ったのだろう。 「警護が必要であれば私の方から手配しておきます」 「そうしていただけますか。私一人では不安がありますので」 「分かりました……。車を出してください」  あくまでも事務的に対応する駈の心中は穏やかではなかった。  相手に任せることは好きではない。信頼出来ないというのではなく、自分の目で確かめなければ信じられないと言った方が正しいだろう。輝流の無事も、彼の姿を目にしてこそ安堵出来る。  また晴也が彼を狙わないとも限らないのだ。  何度か深呼吸を繰り返し、普段の自分を取り戻す。  輝流とのキスの感触を残したままの唇に触れ、長い睫毛を震わせた。  *****  その日、輝流は帰宅するなり部屋に訪れた人物に絶句した。 「おかえりなさいませ。輝流さま……」  長身で端正な顔立ち、最近はやや白髪も見え始めた四十代後半の男――この邸を取り仕切る家令、日野章太郎だった。  運転手や使用人たちの話では、駈は出かけたきり戻ってきていないという。会社の株主総会も近く開催されるこの時期に、のんびりと高校生の相手などしている暇などないのだろう。  彼を拒んだのは自身だ。今頃になって「戻って来い」と言うのは輝流のプライドが許さなかった。  制服の上着を脱ぎ、ソファに乱暴に投げ捨てると、ドアの前で姿勢よく佇んでいる章太郎を睨みつけた。 「なにか用?」 「執事長が外出中ですので、代わって輝流さまの御用をお伺いに」  実の息子を目の前にして、どこまでも冷静な態度を崩さない章太郎に、輝流は苛立ちを隠せなかった。  本来であれば、野宮家の執事を務めてきた日野家の長男として、章太郎の下で執事見習いをしていてもおかしくない頃だ。そして、この部屋の主である駈に傅いているはずだった。  それがどうだろう。実の父親である彼が息子に対して敬意を払い、ニセモノと分かっていながら『当主』と崇める。真実を知った今、こんなバカげた茶番には付き合ってはいられない。  輝流はネクタイを引き抜きながら、ゆっくり章太郎の前に歩み寄った。 「――全部、駈から聞いた」 「そのようですね……」 「実の息子が十七年もの間、他人に育てられてるの見ててどう思った? 要は、駈の影武者みたいなものだったってことだろ? 俺が何者かに殺されても、野宮家にしてみれば有能になるかもしれなかった執事を一人失っただけに過ぎない……その程度のことだったんだろ?」 「違う……」 「何が違うんだよ! αなのにΩになる体質とか、狼の血統の先祖返りとか、アイツの番とか……。もう、わけが分からないっ。挙句の果てには男にケツの穴掘られて、俺の意志とか全く無視で番の証までつけられて……」  章太郎はわずかに目を伏せて、輝流の鋭い視線から逃れるように唇を噛んだ。  それに構うことなく矢継ぎ早に声を荒らげる輝流は、今にも掴み掛からん勢いで彼を追い詰めた。 「――そんなに、この家が大事なのかよ! 金と権力で何でも都合よく人の運命まで捻じ曲げるような奴らに傅いて、ご機嫌伺って……何が楽しいんだよっ!――俺、バカみたいじゃん。当主、当主って煽てられて、その気になって……。しかも、血も繋がっていない叔父に犯されそうにもなって……。俺、あなたみたいに自己犠牲の精神、持ち合わせてないから。野宮の家のためなら死ねるとか……絶対にあり得ないからっ」 「輝流……」  眉をきつく寄せたまま顔を上げた章太郎の目に映ったのは、勝気な栗色の瞳に涙をいっぱいに湛えた輝流の姿だった。  章太郎のスーツの襟元をグッと掴むと、項垂れた彼の頬を涙が伝い、絨毯に二つ、三つ……と落ちた。 「――もう、帰ってもいいかな? 俺の本当の家に……」  輝流の手がゆっくりと滑り、章太郎に縋る様にして膝を床に落とした。  嗚咽を漏らしながら小刻みに震える彼を見下ろした章太郎は、初めて父親として彼の背中を見たような気がした。  幼い頃からずっと見て来たはずの我が子の背中。気が付けば、そこに圧し掛かり彼を縛り付けていたのは、振り払うことの出来ない『運命』という重圧と、駈の番という枷だった。  この邸から連れ出して、自由にさせてやりたいと何度も思った。しかし、野宮家の長男――次期当主として育てられて来た息子はもう、父の手を完全に離れてしまっていた。 「父さん……。俺、ここにはいたくない。息が詰まりそうで……苦しくて、堪らない」  生まれてから一度として呼ばれたことのない『父さん』という言葉に、章太郎の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。  もう二度と呼ばれる事はないだろうと思っていたからだ。  この家の当主であることは戸籍上間違いはない。そして、本来の当主である駈が婚姻という形で籍を入れ、野宮グループの経営全般に於ける権限を伴侶となった彼に譲渡すればすべてが丸く収まる。  そうなれば、駈は執事長ではなくなり、輝流の夫として野宮家の当主になる。  この国で同性婚が認められる以前であればあり得ない事だったかもしれないが、今ではごく当たり前の事であるがゆえに、誰も違和感を感じることはないだろう。  章太郎は足元で蹲る輝流に手を伸ばして躊躇いにその手を止める。しかし、何かを振り切る様に彼の柔らかな髪をグシャリと撫でると、声を震わせて言った。 「――もう、戻れないんだ。お前の身体に流れている血には逆らえない」 「どうしてだよ! どうして、アイツと同じようなこと言うんだよっ」 「お前が俺の子として生まれたのも、日野家に伝わる狼の血がお前の身体に宿ったのも。そして、お前が彼の番として生きていくのも……。全部、駈がお前の血を呼び、お前が彼の血を呼んだ。「愛して」と乞うお前の声に駈はすべてを懸けて応えた。『運命の番』である駈と契りを交わした今、いずれお前は本能に目覚める。彼と同じ人狼として彼を求め、委ねる……。αであるお前が発情期にΩになるのは本能で相手を見極めるため。『運命の番』以外に欲情することはない……」  輝流は父親の口から淡々と紡がれる言葉に大きく目を見開いた。  信じていたはずの、血の繋がった肉親に突き放されたような衝撃に、ギリギリのところにあった自分の存在が底の見えない深い闇の中に沈んでいくような感覚に襲われ、目の前が真っ暗になった。 「――父さんは俺に、アイツの子を産めっていうのか?」 「そうじゃない……」 「そういう事だろっ! どいつもこいつも俺をメス犬扱いしやがって……。自分で選べない人生なんていらないっ。アイツらが敷いたレールの上をただ走るためだけに生きていたくない。俺は男なんだぞ……。子供なんて産めるわけ、ない!」  そう叫んで勢いよく立ち上った輝流は章太郎の腕を力任せに掴むと、ドアを開けて突き飛ばすように廊下に追い出した。 「出て行けっ! もう、あなたを父親だとは思わないっ。俺の両親は死んだんだ!」 「輝流っ!」   バタンッと叩きつけるようにドアを閉めた輝流は微かに聞こえる章太郎の声をシャットアウトするために耳を塞ぎながらドアに凭れ、その場に崩れ落ちた。  泣きながら何度も首を左右に振り、現実を完全否定する。 「これは悪い夢だ……。誰か、夢だって言ってくれっ」  嗚咽を繰り返し、声を震わせる。  何度も自分に言い聞かせるが、見える風景も香りも、そして自身さえも変わらない。  折り曲げた膝が下腹部を圧迫し、今までなかったはずの器官が腹の奥でズクリと疼いた。  何度掻き出しても溢れ出て来る駈の精子。  それが自身の体内に留まっていると考えただけで吐き気を催す。 「――こんな体、いらない。俺は普通に生きたいだけなんだ」  部屋の中に闇が迫っていた。眠れない夜が始まる。  目を閉じれば駈の声が聞こえ、あの夜の愛撫が蘇ってくる。  その手の動きに息を弾ませ、嬌声をあげる自身が許せなかった。いっそ舌を噛んで死んでしまえば良かったと後悔する。  でも、そうする事が出来なかったのは自身の体が駈を求めていたから。 「浅ましい獣の血なんていらない……。俺は人間でいたい……」  駈に噛まれた傷痕に爪を立てて、その痛みに歯を食いしばる。塞がりかけていた皮膚が裂け、ワイシャツに血が滲んだ。  それでも輝流は何度も爪を立てた。忌々しい噛み痕を消すために……。 「消えろ……っ。全部……全部、消えてなくなれっ!」  指先を血で濡らした輝流の悲痛な叫びは部屋に広がった薄闇に吸い込まれていった。  その闇の中から現れるはずの救いの手は、無情にも輝流に静寂と孤独を与えただけだった。

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