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【7】
駈が帰宅したのは深夜を回った頃だった。仕事での精神的疲労と、輝流の事で重くなった心と体を何とか奮い立たせ、車を降りて玄関ホールに足を踏み入れた時、銀色のトレーを持った使用人の女性が階段を下り切ったところに鉢合わせた。
「あ、執事長。おかえりなさいませ」
慌てて頭を下げた彼女の手元を見た駈は、眉間に皺を寄せた。
銀色のトレーには包帯とガーゼ、そして章太郎が用意したものと思われる鎮静剤の小瓶が乗っていた。
「それは?」
「え? これはですね……えっと」
「誰か怪我でもしたんですか? 鎮静剤を服用させなければならない程の傷を?」
「いえ……」
何かを誤魔化すようにしきりに目を泳がせる彼女に、駈は階段の手摺に手をかけて彼女の行く手を阻んだ。
「私に言えない事ですか? 家令はその事をご存じですか?」
駈の迫力ある質問攻めにあった彼女は、もう隠してはおけないと腹を括った。
何度も言い淀み、それでも重々しく口を開いた。
「輝流さまが……」
小声でその名を口にした瞬間、駈の顔色が変わった。先程よりも険しさを増した黒い瞳は、息を呑んだままの彼女をさらに竦ませた。
今までに感じたことのない恐怖を覚える彼の気迫に、トレーを持つ彼女の手が微かに震え、カチャカチャと小瓶を揺らした。
「――彼に何かあったんですか?」
「パニックを起こされて、ご自身の体に傷を……。首に爪を立てられて……」
「それで今、彼の様子は?」
「家令の指示で手当をして、今は鎮静剤で眠っておられます。様子を見て明日にでもお医者様に診ていただいた方がいいかと……」
駈は「なんてことだ」と吐き捨てるように呟くと、彼女を押し退けるようにして階段を駆け上がった。
踊り場で何かを思い出したかのように一度だけ彼女を振り返り、駈は静かに言った。
その口許にはいつもの優し気な笑みが浮かんでいた。
「――ご苦労様でした。もう、休んで結構ですよ」
「は、はい。ありがとうございます」
余程緊張していたのか、深い息を吐きながら深々と頭を下げた彼女を視線の端に捉えながら、駈は再び階段を駆け上がった。その顔は苦痛に歪み、噛みしめた唇からはわずかに血が滲んでいた。
輝流の部屋へと続く長い廊下を足早に進み、そこでドアの前にいた章太郎を見るなり、その足を止めて深く頭を下げた。
「駈……さま」
「――心配をおかけして申し訳ありません」
「お仕事はもうお済みに?――その様子だと、彼女に聞いたようですね? 野宮家の使用人がこんなに口が軽くては困りますね。もう一度教育し直した方がよさそうだ」
苦笑いを浮かべた章太郎に、駈は真っ直ぐに向き合った。
「輝流は……自分を責めたんですか?」
その問いに、章太郎は無言のまま首を横に振った。
自分が思っている事とは違う理由があるのかと、眉を顰めたまま彼を見つめた。
「――運命を、責めたんです」
「運命?」
「彼が帰宅してから少し話をしました。十七年ぶりの父と息子の会話――というにはぎこちなく、殺伐としたものでしたが」
「彼は……何を?」
「私はあの子に見切られましたよ『父親だとは思わない』ってね。貴方と惹かれ合った運命の血に対して『自分で選べない人生なんていらないっ。アイツらが敷いたレールの上をただ走るためだけに生きていたくない』って……部屋を追い出されました。そのすぐ後だと思うのですが、貴方の噛み痕を消そうとしたんでしょう。自分の爪で何度も何度も傷をつけて……。異変に気付いた私が部屋に戻った時は、両手を血に染めて床に倒れていました」
「それほどまでに輝流は……」
「あの年頃は多感な時期でもあります。いろいろなことが重なって精神的に極度のストレスを感じたのでしょう。強気で負けず嫌いな彼が泣きながら私に縋ったんです『もう、帰ってもいいかな? 俺の本当の家に……』って。父親として……正直、なんと答えればいいのか分かりませんでした。やはり、あの子の言う通り、私は父親として失格だったのでしょう」
自嘲気味に笑った章太郎だったが、目の前に立つ駈の顔を見た彼はその笑みを早々に消した。
唇を噛みしめたまま微動だにしない駈ではあったが、わずかに見開かれた黒い瞳は鮮やかなブルーに変わっていた。
長く伸びた爪が自らの掌に食い込むほど強く拳を握り、黙って章太郎の話を聞いていた。
「駈……」
「――彼からあなたを奪ったのは俺だ。それに、俺の血が輝流を呼ばなければ……自由に生きられたのかもしれない」
「何を仰るんですかっ」
「輝流を傷付けるつもりはなかった。ただ……この想いを。伝えたいだけ……だった」
「想いだけでは野宮家の存続は成りませんよ」
「そんなもの、どうだっていい! 俺は、アイツと共に生きたいと願っただけだ。アイツを守り、愛せるのなら……。それを阻み、枷になる野宮の名なんか捨てても構わない!」
「滅多なことを口にするものじゃありませんよ!――じゃあ、一体何のために輝流を巻き込んだんですか? 今更、綺麗ごとを言ったところで輝流の心の傷は消えない。ここまで来たら、貴方はこの家の当主らしく、輝流を幸せにすることだけを考えてください。――彼の父親として言えることはそれだけです。もし……あの子をまた泣かせるような事があれば、私はあなたを殺します。すべて、なかったことにすればいいだけの話ですから」
章太郎はそう言い放つと、駈に深く頭を下げてからその場を去った。
今まで父親という事を隠して、側で成長を見守っていた彼。その彼が初めて『父親らしいこと』をした。
息子を思い、長年忠誠を尽くしてきた家の主に対し牙を剥いたのだ。
実の父親である章太郎に、これほどまでに愛されていることを輝流は気づいているのだろうか。
自暴自棄になり反抗的な態度で暴言を吐く気持ちは分かる。だが、そんな言葉を浴びせられても、彼の幸せを願う気持ちに変わりはない。
彼の運命を違えた野宮家を恨み罵るわけでもない。でも、その根源である駈を消す覚悟は出来ている。
「――なかったことにする、か」
もしも、本当にそう出来るのならばどれほど楽だろう。
あの哀し気な輝流の顔を見ずに済むのなら、いっそ自ら命を断ってしまった方が楽なのかもしれない。
そうすれば番の契約は無効となり、輝流は誰にも縛られることなく『日野輝流』として生きられる。
駈はやるせない気持ちを抱いたまま、彼の部屋のドアをそっと開けた。
照明の落とされた部屋は静かで、ベッド脇に置かれたナイトテーブルからの弱い明かりだけが輝流の寝顔を照らしていた。
首に巻かれた白い包帯がやけに痛々しく、駈はベッドの端にゆっくりと腰掛けると、手を伸ばしかけて動きを止めた。
規則正しい寝息に、現実から切り離された場所での安息があることを悟った。
鎮静剤によって深い眠りに落ちている今だけはすべてを忘れられる。
「輝流……」
頬にかかった柔らかな栗色の髪を指先でそっと払い除け、駈は今にも笑みを浮かべそうな薄い唇にキスをした。
乾いた唇を潤すように何度も啄んでは、舌先を隙間に差し込んで歯列をなぞる。
そして、唇を這わせたまま顎から首筋へと移動する。
丁寧に巻かれた包帯に手をかけ、それを長い指が解いていく。
傷を押さえたガーゼには薄っすらと血が滲んでいる。駈の噛み痕を否定するかのように斜めに走った幾筋もの引っ掻き傷を目にした彼は、わずかに目を伏せはしたが逸らすことはしなかった。
獣の本能として手負いの傷を舐めて治す習性がある。それが愛する者の傷であれば、なお丹念に患部を舐めて傷を塞いでいく。
医学的根拠は何もない。だが、生涯にたった一人の番しか持たない狼一族はどの獣よりも愛情深く、独占欲が強い。伴侶や子を何よりも大切にし、身を挺して家族を守る。
「――俺には一番大切なものが欠落している」
暗闇に駈の鮮やかなブルーの瞳が浮かんだ。
長く伸びた爪で彼を傷付けないように頬にそっと手を添え、露わになった傷に舌先を伸ばした。
消毒の匂いが鼻をつく。だが、それよりも輝流の血の味の方が鮮烈に意識に訴えかける。
初めて繋がった夜のような甘さも香りもない。
番を呼ぶΩ体質ではなくなってしまったせいだろうか。いや――理由はそれだけではない。
疑心暗鬼に陥り、誰にも心を開いていない証拠だった。
それは運命を共にすると決めた駈だからこそ分かること。しかし、その原因を作ったのは他の誰でもない、駈本人なのだ。
伴侶の信頼を失い、愛までも消えかけている今、駈に出来ることは限られていた。
「輝流……。すまない……」
何度も謝りながら首筋の傷を丁寧に舐めていく。スーツが皺になることなど気にすることもなく、ベッドに横たわり、時折わずかに身じろぐ彼の体を抱きしめた。
毛布越しに伝わる体温、首筋に流れる血液、そして胸の鼓動。
息を殺し、耳を澄ませば彼の心の声が聞こえてくるようで、駈は苦しさに自らの胸元を掴んだ。
長い睫毛が影を落とし、このまま目覚めないかもしれないという不安に駆られ、息苦しさを感じた。
命には別状はない。ただ、極度のストレス障害から自らの意識を封印してしまう症例もある。
現実からの逃避、運命からの逃亡。
そんな彼を繋ぎ止めておく鎖の効力は今はない。体を繋げても心が繋がらなければ、輝流の本能が目覚めることも、互いに想いを通わせることも出来ない。
「輝流……。いつもみたいに笑ってくれないか? 俺の名を呼んで……くれ」
閉じた瞼に唇を押し当てて、何かに祈る様に囁く。
「もう……何もいらない。お前がいてくれれば、それだけで十分だ。結ばれることを願ったはずの運命は残酷で哀しい……。こんなはずじゃなかった。愛しているのに……。お前だけを……愛しているのに」
輝流の頬を伝ったのは駈の涙だった。
ブルーの瞳から零れる滴はまるで宝石の欠片のように美しくはあったが、同時に底知れぬ悲しみと憂いを秘めていた。
その名があれば国の中枢さえ動かせるほどの力を持った野宮家。威厳と畏怖に満ちた本来の当主が最愛の男にだけ見せた弱さだった。
「輝流……輝流……」
春の風を呼ぶような柔らかな声が寝室に響く。その声は時に嗚咽に震え、何度も途切れた。
しかし、彼はその名を呼ぶことをやめなかった。この声が彼の心に届くであろうと信じて呼び続けた。
東の空が薄っすらと明るくなり、朝の訪れを告げる鳥たちの囀りが聞こえるまで、ずっと……。
*****
輝流は長い夢を見ていた。でも、それを思い出すことは出来なかった。
ただ、重い瞼をあげて真っ先に感じたことは、毛布よりも温かい何かに包まれ、悦びに心が震えるほどの何かを与えられたこと。
少し圧迫感を感じて、夕べの事を思い出した。自身の首に触れ、丁寧に巻かれた包帯に小さく吐息する。
「――俺、最低なヤツだ」
実の父親である章太郎に八つ当たりとも言える暴言を吐き、仕舞いには自暴自棄になって体に傷をつけた。
今まで駈と顔も合わさず会話も交わさなかった日があっただろうか。わずか数日の事ではあったが、輝流の中ではかなり長い時間のように思えた。
「あんなヤツ……」
毛布を手繰り寄せて顔半分を覆ったところで、輝流はその動きを止めた。
微かではあるが彼の香水の匂いがした。意識しているわけではないが、その匂いの在処を探ろうと嗅覚が勝手に感覚を鋭くさせる。
毛布を掴む手に力が入る。
香水だけじゃない、彼が纏う独特の甘い香りも混じっている。輝流を抱いた夜、部屋に充満したオスの匂い……。
Ωが発するフェロモンに応えるように発せられるオスの匂いはマーキングの役目も果たす。
所有の証を付けられた輝流は、彼の香りからは逃れられない。
痛みしかなかったはずの首筋に甘い痺れが走り「あ……っ」と声をあげ、顎を仰け反らせた。
発情期は終わっている。それなのに下腹部が疼き、ペニスが芯を持ち始める。
「苦しい……」
嫌でも肺に入ってくる駈の香りが心臓を高鳴らせ、呼吸を乱していく。
(欲しい……)
体は何かを求めてやまない。しかし、輝流にはそれが何なのか分からなかった。
自分の運命を狂わせた駈の事は恨んでも恨みきれない。それなのに、ほんの微かに香った彼の匂いが自身を苦しめる。
(これが『運命の番』なのか……)
心と体が合致しない。ギャップにもがき、ぎゅっと目を閉じた時、耳の奥で自分を呼ぶ声に息を呑んだ。
いつも聞いているはずのその声は、やけに懐かしく、そしてこの世に生を受ける前に聞いていた声に似ていた。
母の胎内で鼓動とシンクロしていた低く甘く、そして何よりも柔らかく愛しい声――。
「この声……」
自然と目尻から零れ落ちた涙に、忘れかけていた記憶と本能が蘇ってくる。
輝流は羽枕の端を掴み寄せ、体に満ち溢れる熱を逃そうと体をぐっと伸ばして溜め込んでいた深い息をゆっくりと吐いた。
涙で濡れた長い睫毛を小刻みに震わせて、薄っすらと瞼をあげる。
「――駈」
今まで抑え込んでいたはずの心。その中で渦巻く想いに従い、口にした最愛の男の名前。
カーテンの隙間から射し込んだ朝日が輝流のベッドに細い光の筋を作る。
長い睫毛に縁どられたくっきりとした二重の奥にあったのは栗色の勝気な瞳ではなかった。
光の当たり方によっては金色に見える純度の高い琥珀色の瞳。
過去に存在し、絶滅したと言われる稀有な狼族の末裔。それを象徴する高貴な瞳は、本能で呼び合った者の血を後世に繋ぐことを運命づけられた証。
「駈……。駈……」
声を出さずとも唇をそう動かすだけで、全身が甘く痺れていく。
輝流は首筋の噛み痕をなぞる様に指を滑らせると、小さな牙を見せながら駈の幻影を誘うように身をくねらせた。
その姿は優雅で美しい狼そのものだった。
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