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【8】
「――おい、輝流。お前、何かあった?」
間違い探しでもするかのような神妙な顔つきで覗き込んできたクラスメイトを驚いた顔で見つめ返した輝流は、呆れたようにうわべだけの笑みを浮かべてみせた。
「別に……。何か、変か?」
「いや。男のお前にこう言うのは悪いと分かってるけど、最近やたらと色っぽいなぁって……。あ、女っぽいって言うんじゃなくてだなっ」
慌ててフォローを入れた彼を勝気な栗色の瞳が捉える。わずかに細められたその瞳に彼は頬を染めた。
「――お前、もしかしてソッチ? あぁ……αはどっちでもイケるんだもんなぁ。今は性別拘らないし」
「そ、そうだね……。お前は知らないかもしれないけど、先輩たちに密かに狙われてるから気を付けた方がいいぞ。いきなり犯されて、誤って妊娠とかしちゃったら、いろいろマズイことになるからな」
彼の言う通り、もしそんなことが起こればスキャンダルになりかねない有力者の子供ばかりが集うこの学校の威信にかかわる。
Ωを完全に排除したとしても、α同士の恋愛は避けられない。
しかし、中には敵対する家同士の息子が秘密裏に付き合っていたり、遊び半分の性交で妊娠が発覚し、互いの家同士が揉めるという事もしばし耳にする。
輝流にとっては関係のない話でいつも素通りしてきた。だが、自身が特異体質でいつ発情期を迎えΩになるか分からない事を知ってからは、正直、落ち着かない日々を過ごしていた。
もし授業中に発情期を迎えてしまったら――そう考えるだけで背筋が凍る。
Ωの発情期は個人差があり、一般的に言われている三ヶ月に一度という周期で訪れるとは限らない。
輝流は初めての発情期から二ヶ月が経っていた。その間、何度か駈と顔を合わせることはあったが、会話も以前より少なくなっていた。
「そう言えば輝流のとこのイケメン執事さん、ここのところ見かけないね? まさか……クビにしたとか?」
駈のことを考えていたタイミングで彼の話題を振られ、輝流は少し戸惑った。
「送迎から外れただけだよ。彼、俺の代わりに会社の経営の方に回って貰ってるから」
「有能だってのは噂で聞いてる。ビジネス誌にも載ってたらしいね? パパがそう言ってた」
「ああ……」
素っ気なく返事をし、輝流は手持無沙汰に手元のペンを弄り始めた。
彼が執事という立場でありながら会社経営能力に秀でていたのは、紛れもなく野宮の血を引いていたから。
隼刀が亡くなり、もし駈がいなかったら……と考えるとゾッとする。
統率者を失った野宮グループは呆気なく破綻し、今頃は莫大な借金と職を失った者たちからの訴訟に苦しんでいただろう。
ただでさえ多忙な社長職と執事長という二足の草鞋を履く駈の能力を認めていないわけではない。
未成年で、経営に関しては全く無力である輝流は彼なしでは生きていけない。それなのに素直になれない。
別に嫌いなわけじゃない。ただ、きっかけが掴めないだけ……。
自分を責め、父親である章太郎を責め、そして何より運命を狂わせた駈を責めた。
それが無駄なことだったと悟ったのは、自身を傷付けた翌朝だった。
駈の残り香に欲求を抑えられず、なおも違うと否定し続けた結果、輝流はそれまで眠っていた本能を呼び覚ましてしまったのだ。
自身の中に流れる獣の血を認識した瞬間、それまで食い違っていた心と体が一つになった。
『運命の番』として彼に抱かれ、体内に精を注ぎ込まれ、輝流の体にはなかった器官が生まれた。
その場所が疼くたびに、体は駈を求める。
それは発情期という限られた期間だけでなく、ふとしたことで彼と接するたびにその欲望は大きく膨らみ、輝流を支配した。
今までは定期的な処理としてしか行われていなかったはずの自慰も、彼のことしか考えられなくなっていた。
契りを交わした番は、その相手にしか欲情しない。
まさにその通りで、他の者がいくら輝流に色目を使っても、体と心はピクリとも反応しない。
それが学校一のイケメンであっても……だ。
そもそも輝流はメンクイというわけではなかったが、他人に対して駈以上に魅力も興味も感じられなくなってしまっていた。
「――おい、輝流っ」
「え? あ……ゴメン。ボーっとしてた」
「今度の中間テストの出題範囲がまた変わったって。まあ、成績トップのお前には関係ないか。何が来ても問題ないもんな」
「そんなことない。俺だってミスはするよ……人間、だし」
「お、弱気な発言! 輝流にしては珍しく後ろ向きだな。もしかしたら今度のテスト……俺、イケるかも!」
ガッツポーズをしてニヤリと笑う彼に「それはないな」と冗談で切り返した輝流は、制服のブレザーのポケットに入ったスマートフォンをそっと押さえた。
(呼んだら、来てくれるかな……)
あの日以来、輝流と駈の間に出来てしまった壁は高さを増し、より強固になって二人を隔てていた。
駈も輝流に近づくことを避け、輝流もまた糸口を見つけられない会話に戸惑いを隠せなかった。
「愛している」と言ったのは嘘だったのか。
一方的に駈を責める立場ではないことは分かっている。自分もまた、彼を傷付けたことには違いない。
翌日には喧嘩したことさえも忘れている子供の喧嘩とはわけが違う。一生添い遂げなければならない伴侶との間に出来た溝は、時間が経つにつれてより深く大きくなっていく。
野宮家を守るために、それでも『夫夫 』であり続けなければならないのは、輝流にとって苦痛でしかなかった。
どんな顔をして甘えればいいのか分からない。今まで、どんな会話をしていた?
何度思い出そうとしてもその記憶は曖昧で、日常の何気ない言動がどれほど意識していないものだったかを痛感させられた。
「――放課後、図書室で自習していくだろ?」
「いや……」
「珍しいね? 静かで集中出来るからって言ってたのに……」
レポートの資料集めや自習には最適な環境だった。だが、あの日以来、足は自然と遠のいていた。
初めての発情期を迎えてしまったという事もあったが、何より晴也の事を思い出すと体が震えた。
輝流が発情し、Ωが放つ匂いを発していた事。野宮家にとって一番知られてはいけない人物に知られた事。
ここ二ヶ月、音沙汰もなく急に連絡を断ったことも輝流の不安を増幅させていた。
こういう時、晴也はロクなことを考えていない。野宮夫妻が交通事故死した時もそうだったからだ。
しかし、彼らを殺したという証拠は見つからなかった。
「――今は家の方が落ち着くから」
何とか言い訳を考えてその場を凌いだ輝流は、彼に気付かれないように重々しいため息を一つ吐いた。
*****
野宮グループの本社に出向いていた駈の突然の帰宅に、章太郎は緊張した面持ちで彼を迎えた。
「随分と早い帰宅だな。他の者も予定が狂ったと焦っていたぞ」
自室でスーツの上着を脱ぎながら駈は苦笑いを浮かべると、ドアの側に立つ章太郎をチラリと見た。
「――こういう時もありますよ」
「やっと輝流の迎えに行く気になったか?」
駈はネクタイを解く手を止めて、窓の外に広がる庭を見つめて言った。
「そう望まれたような気がして……。俺が行かなければいけないような気がしています。朝から嫌な胸騒ぎがしていて……」
「胸騒ぎ?」
静かに問い返す章太郎を肩越しに振り返り、駈はすっと目を細めた。
黒い瞳が鮮やかなブルーに変わり、その場の空気がガラリと変わる。
普段は眠っている当主の血が目覚めた証拠だった。
それに気づいた章太郎は小さく息を呑み、彼の動向を見守った。同時に、駈に対しての言葉遣いも慎重になる。
「叔父の――晴也の動きは把握しているんだろう?」
「不審な動きがあれば、調査員から逐一連絡が来ることになっています。最近は、自身が経営する会社でまた新しい事業を始めたようですね。いかがわしい風俗店の経営と――」
「経営と?」
「――Ω性を持つ者たちを高額で海外に売り捌く。つまり、人身売買……ですね。Ω性は稀少で、どんな性にも対応出来ることから、上位階級であるα性からの需要はあるようです。ペットから後継者の育成まで使用用途は様々……」
「くだらない……。どこまでもクズだな。Ωも人間だぞ。それじゃ、まるでモノ扱いだな」
「あの男の考える事ですから、どうせロクな事ではありません。ただ――一点だけ気になることが。その事業を立ち上げたタイミングというのが輝流の一件のあとで……。まさかとは思いますが、彼の発情期に気付いてしまったのではないかと」
駈の目が一段と鋭くなる。
輝流が初めて迎えた発情期を目の当たりにして、晴也もまた彼に欲情していた。
あの時、駈が助けなければ輝流は間違いなく、あの獣に犯されていた。
「まさかとは思うが……。あの男の事だ。そのまさかをやりかねない」
「輝流がα性であることは彼も知っています。しかし、Ω性に変わることに気付いてしまっていたら……。輝流ほど稀有な存在はそうそういません。――駈……さまっ」
章太郎が何かに突き動かされるようにドアに向かった。
それを抑揚のない声で制止したのは、クローゼットから執事業務に使用しているスーツを取り出した駈だった。
「――お前に何が出来る」
勢いよく振り返った章太郎は、そんな彼を思い切り睨みつけた。
そこにいたのは誠実な従者ではなく、子を思う父親だった。
「私には……貴方に出来ない事が出来るっ。輝流は血の繋がった実の息子です」
「輝流は俺の伴侶だ。俺が守る……」
「駈さま……」
「泣かせるなと言ったのはお前だろう……。俺だって命がかかっている」
クスッと肩を揺らして笑った駈は、ソファにハンガーにかかったスーツを放り投げると、焦りを隠せない章太郎を真っ直ぐに見据えた。
その眼力は、今まで章太郎が目にしたことがないほどの自信に満ちていた。
運命に翻弄され、その運命を受け入れた男の顔だった。
「学校に向う。車の手配を頼む」
「駈……」
「――晴也から目を離すな。あと……もしもの時を想定しておいてくれ」
完璧主義である駈の口から出た意外な言葉。しかし、章太郎にはもう不安はなかった。
もしもの時……。それは輝流に関した事ではなく晴也の事だと理解したからだ。
「――承知いたしました」
仮の親子とはいえ長年行動を共にしてきた駈の事は、実の両親である野宮夫妻よりも理解している。
彼の言う事には間違いはないのだ。
野宮家の名を使えば不可能はない。それを輝流のために使うのであれば、駈も文句はない。
深く頭を下げた章太郎が部屋を出て行ったあとで、駈は乱れた黒髪をゆっくりとかき上げた。
「どんな理由であれ、輝流に手を出すことは絶対に許さない。それがあの男であれば尚更だ……」
狼は繊細で勘が働く。今朝からの胸騒ぎが思い過ごしだという事はあり得ない。
まして、番である輝流が危険に晒されているという事は駈が一番よく分かる。そして輝流もまた、何だか分からない不安に駆られていることも……。
情緒不安定は突発的な発情を呼ぶことがある。駈はデスクの抽斗から即効性の抑制剤とクリアケースに入れられた調査報告書を取り出して、ぐっと拳の中に握りしめた。
秘密裏に調査された報告書は章太郎にも伏せているものだ。
前回の発情期に輝流は妊娠しなかった。晴也に狙われている今、駈にとってそれが唯一の救いとなった。
もし、彼が子を成していたら……こんなに悠長にはしていられなかっただろう。
輝流に手が及ぶ前に、間違いなく晴也を消していたに違いない。
三年前と同じ過ちは犯さない――絶対に。
「――いずれにせよ消えてもらわなければならない存在ではあるがな」
駈は吐き捨てるように呟くと、新たなスーツに腕を通した。
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