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【10】

 残響が倉庫内の壁に乱反射し、鼻をつく硝煙の匂いがあたりに漂った。  冷えた空気を揺るがした銃声は、なぜか輝流の口元に笑みを浮かばせた。 「――っく」  自分を見下ろしていた晴也の右肩が真っ赤に染まっている。  ワイシャツの袖を赤く染めながら流れた血が袖口から滴り、白いシーツに広がっていった。 「誰だっ!」  右肩を押さえながら勢いよく振り返った晴也は、倉庫の扉の前に立つ男の姿に目を見開いた。 「貴様……っ」  彼の視線の先には黒いスーツを身に纏い、白い手袋を嵌めた手で拳銃を握る長身の男――そう、駈がいた。  重く大きな扉の隙間から吹き込む潮風が、彼の黒髪と上着の裾をわずかに揺らしていた。 「――それ以上、彼に触れることは許さない」 「執事風情がっ!」  ベッドから飛び降りた晴也は激痛に顔を歪ませながら、足をふらつかせて駈に近づいた。  コンクリートの床を擦る靴音が、彼の動揺を露わにしていた。 「貴様ら……。そんなに野宮の財産が欲しいのかっ。そんなにくだらねぇ権力が欲しいのか?」  唸る様に呟く晴也に、駈は表情一つ変えることなく言った。  その声はどこまでも冷たく、感情も見いだせない。 「その言葉、貴方にすべてお返しします」 「何だと……。俺は、お前らに全部を奪われた被害者だぞ! 兄貴が死んで、野宮家を継ぐのは弟である俺だ。他人であるお前らにやる物なんか何一つないっ!」 「――奪われた被害者? ふふ……面白い事を仰いますね。人間のクズである貴方が被害者を名乗る資格はありませんよ。被害者は私たちの方なんですから」 「何を言う……。野宮の連中はクソ野郎ばかりだな。口の悪い執事といい、生意気なガキといい……。それだけじゃない。俺の事をさんざん貶めた兄貴夫婦といい……。親父だってそうだった。俺だって野宮の血族なのに……ムカつく事ばっかり言いやがって。挙句の果てには家を追い出されて親子の縁を切るとまで言い出した」  晴也は歯ぎしりをしながら駈を睨みつけた。赤い瞳がより赤みを増していく。 「野宮家は俺のモノだ……。貴様らなんかに渡さないっ」  それまで何も言わずに晴也の言葉を聞いていた駈は構えていた銃を下ろし、スーツの上着の内ポケットに手を入れると、そこから綺麗に畳まれたコピー用紙を数枚取り出すと、ゆっくりと歩みを進めた。  静かな倉庫に響いたその靴音は硬く、まったくブレがない。  血で汚れた左手を上げ、正面から歩いて来る駈を制止しようとした晴也の手は呆気なく彼の持っていた書類で払われ、すれ違いざまに胸元に叩きつけられた書類が足元に舞い散った。  駈はそのまま足を止めることなく輝流が拘束されているベッドへと向かうと、感情の読み取れない眼差しで欲情する輝流を見下ろした。 「はぁ……はぁっ。か、かけ……るっ」  うわ言のように呟く輝流に、彼はベッドの端に浅く腰掛けて長い脚を組むと、そっと手を伸ばして汗で張り付いた栗色の髪を払いのけた。 「――野宮家の当主がこんなアラレのない姿を他人に晒すとは。輝流さま、家に帰ったらお仕置きですよ」 「あ……いやぁ、はぁ……っ」 「しかし、物凄い香りですね。この前とは比較にならない……。あの男にも困ったものです。薬で強制的に発情期を誘発させて周期を狂わせるなんて……。これでは彼のホルモンバランスが崩れて――」  駈は薄い唇を片方だけ上げて笑うと、輝流のワイシャツの裾を払いのけて白い滑らかな下腹を撫でながら頬を寄せた。  不規則に上下する腹に頬を押し当てて、まるで何かに耳を澄ませるかのように目を細めた。  ゆったりとした動きで撫でる駈の手に、輝流は顎を上向けて小さく喘いだ。  自分が――いや、この体が求めてやまなかった香りが自身を包みこんでいくのが分かる。  ゆらりと揺れるように、目には見えない鎖が輝流を縛り、心酔させていく。 「はぁぁ……。この匂い……を求めて、た」  うっとりと声を震わせる輝流の香りがまた強くなる。それに伴って駈が纏うオスの香りも濃度を増していく。  番ったメスへのマーキングはオスの威厳を表す。それがより強くハッキリしたものであれば、他のオスは近づく事さえ憚られる。血筋と権力の象徴とも言える香りは、上位種族だけが纏う事を許されるものだ。 「発情期を迎えたばかりの彼の体はとってもデリケートなんですよ。本当に……勝手な事をされては困りますね。――晴也さま」  チラリと晴也の方を睨んだ駈に、床に散らかった書類を拾い集めていた彼は息を呑んだ。  輝流の腹に頬を寄せ、妖艶に微笑んでいたのは鮮やかなブルーの瞳を持つ獣だった。  指先の長い爪で傷つけないように輝流の肌を撫でる駈の口元には鋭い牙が見え隠れしていた。 「お前……まさかっ」  驚きでその場に尻をついた晴也は、手にしていた書類の強調された見出しと駈とを交互に見つめた。  その書類には『最終調査報告書』と書かれ、視線を動かした先に書かれていた内容に驚愕した。 「――貴様のせいで、俺の子を孕めなくなったらどうするつもりだ?」  それまで人当たりよく穏やかな口調で話していた駈が、鋭く語気を強めて言い放った。  駈の香りに喘ぐ輝流を労わり、ゆっくりと上体を起こした彼は覇気を全身に纏いながら床に座り込んだままの晴也を見下ろした。 「野宮家の財産と権力だと? それを使ってお前は三年前、何をしたか忘れたわけではないだろうな?――その報告書には、あの時お前が揉み消した事故の詳細が記されている」 「お前……。お前は、ただの執事じゃなかったのか。その瞳の色は……兄貴と同じ、野宮の血統……」 「俺の本当の名は野宮 駈だ。お前の脅威から守るために両親は俺を代々仕えていた日野家に預けた。そして、執事としてあの家の全てを見ていた。輝流は俺の運命の番――。許嫁と公表すれば、またお前が何かを企む。彼の安全のために野宮家の息子として目の届くところに置いたのは二人の案だ。そんな二人を事故に見せかけて殺した……。当時、疑われはしたがその証拠が何一つ出てこなかったのは、当時の警視庁上層部に口止めさせ、偽造した事故報告書を受理させていたからだろう。その時渡した金は、なんやかんやと理由をつけて父上から奪い取った金……。それに『野宮家』の名を出せば、多少の無理も通るからな」 「なぜ……。今になってこんなものがっ! あの計画は完璧だったはずじゃ……っ」 「簡単なことだ。当時、上層部で事故案件を請け負った幹部が別件で逮捕された。有名企業への便宜を図るために収賄容疑で逮捕され、その際、過去の余罪を洗っていくうちに芋蔓式に明らかになったというわけだ。もちろん、貴方の名前もあがっていますよ……晴也叔父様」  おどけて笑みを浮かべた駈を赤い瞳が睨みつける。  それを真正面から見据えた駈は、フンッと鼻を鳴らした。 「富と権力の使い方をはき違えた貴方に、二度と野宮の名を使うことは許さない。そもそも、貴方は野宮家の純血統ではない。自分でも気づいていたのだろう? その瞳の色……」 「なんだと……っ」 「お爺様が若気の至りで愛人との間に出来た子を認知し、仕方なく引き取って育てただけの事。確かにαではあるが、何の力も持たない人間との間に出来た人狼……。本能のままに貪り、理性なく欲するだけの獣だ」  確かに晴也の兄である隼刀は、駈と同じ鮮やかなブルーの瞳を持っていた。自分は彼とは違う、野宮の中でも特別な存在だと思って生きて来た。 「俺が……愛人の子?」 「だが戸籍にはその記述はない。なぜかと言えば、お爺様のプライドが許さなかったからだ。自分の過ちが原因でいざ引き取ってはみたが、愛人の名を戸籍に記したくなかったんだろう。今に思えばくだらない事だと思うが、当時としてはそれが命取りになりかねない時代だ。ちょっとした綻びが足元を掬う――それは今でも変わりはない」  駈は再び輝流に向き直ると、苦し気に熱い息を吐くその唇をそっと塞いだ。  柔らかい声音に見え隠れするのは無償の愛。 「――輝流」  輝流はその声に応えるように琥珀色の瞳で彼を見つめた。  吸い込まれるような魅惑の青。そこに映る自身にすっと目を細めた。 「駈……。俺……何て、謝ったらいい? 俺……お前じゃ、なきゃ……。お前がいなきゃ……ダメだ」 「今頃気が付いたのか……。もう、虚勢を張るのは大概にしろ」  そう言って輝流の唇を嗜めるように啄んだ駈は、彼の両手に掛けられていた手錠に繋がった鎖を素手でいとも簡単に引きちぎると、自由になった手首に唇を寄せた。 「この傷も……。お前が負った傷はすべて癒してやる……」  わずかに血の滲んだ擦り傷に舌先を伸ばす駈を見て、輝流は自身の体を傷つけた夜の事を思い出していた。  微睡みの中で温かい何かに包まれ、悦びに心が震えるほどの何かを与えられたこと。  それはきっと、駈が今と同じように首筋の傷を舐めてくれていたのだろう。  誤解が誤解を生み、すれ違ったままの想い。輝流が浴びせた暴言よりも彼を想う駈の愛情の方がはるかに勝っていた。  本能が目覚めてから知った事実。狼の番は生涯たった一人。そして、嘘偽りのない真っ直ぐな愛情。  傷を負えばそれを癒し、子を成せば家族を守る。  駈は輝流が生まれてからずっと、彼だけを守ってきた。それは野宮家の後継者を残すためだけじゃなく、生涯を共に過ごす伴侶と見定めたからだ。  彼の舌先に体が敏感に反応する。  心臓が壊れてしまうかと思うくらい早鐘を打ち、重なった香りが輝流をより愛らしくさせていく。  輝流はそっと手を伸ばして、駈の頭を引き寄せると声を詰まらせて言った。 「駈……」 「なんだ?」 「俺を……。俺をあ……、あぃ……愛して、くれ……ますか?」  決して発情期の欲情が言わせた言葉ではない。輝流の心に抑え込まれていた真実の想いだけが溢れ出した瞬間だった。  駈はさも当たり前のような表情で微笑んだ。でも、どこか安堵の色が見えたような気がしたのは、輝流の見間違いではなかったようだ。  上着のポケットから取り出したピルケースから錠剤を出し、それを自身の口に放り込んだ駈は、そのまま輝流に唇を重ねた。 「少しだけ、我慢しろ……」  口移しに与えられた錠剤を呑み込むと、輝流は潤んだ目でわずかに頷いた。  彼の力強い腕が輝流を軽々と抱き上げる。  そのままベッドから離れた輝流は、床に座ったまま項垂れる晴也を見下ろした。 「――罪を償ってください」  息も絶え絶えにそう告げた輝流を憎しみのこもった赤い瞳が捉えた。  その冷たさにゾクリと背筋を震わせた輝流だったが、一刻も早く駈と繋がりたいという思いの方がその恐怖を凌駕した。  彼の子種を求めて欲情するΩ……。薬を使ったとはいえ、その体は完全に受け身へと変わっていた。  下腹部が疼き、後孔が収縮を繰り返す。 「はぁ……も、ダメ……っ。駈……はやく、欲しい……っ」  彼の肩に顔を埋め、何度も強請る。そして、いつしかぐったりと力なく体を預けた。  即効性の抑制剤が一時的に輝流の意識を失わせたのだ。  高額な割にはそう長い効果を得られない抑制剤。切羽詰まった輝流の言葉に応えるように晴也を一瞥して背を向けた駈。  歩き出した駈の背中を物凄い形相で睨んでいた晴也は、ポケットに忍ばせていたナイフを左手で握ると、勢いよく立ち上り二人の元へ駆け出していた。 「くそーっ! お前らさえいなければっ」  自らの血と埃で足を滑らせながら、体をふらつかせて距離を縮めていく。  そして、大きく振りあげたナイフが駈の背中に突き込まれようとした瞬間、一発の銃声が響いた。  それでも足を止めずに歩いていく駈の前の鉄扉が開き、数人の男たちが雪崩れ込んできた。  黒いスーツに身を包んだ彼らは咄嗟に足を止め、駈の背後でゆっくりと崩れ落ちていく晴也を固唾を呑んで見守っていた。  硝煙の匂いが漂うなか、ベッドの奥で拳銃を構えたままの男が唇を綻ばせた。 「野宮家の運命を狂わせた元凶は、犯した罪を悔い、明かされた生い立ちを悲観し自ら命を断った……。警視庁の皆様方の目の前で……」  白い手袋を嵌めた手がゆっくりと下ろされる。拳銃をベッドの上にそっと置き、胸に手を添えて深々と頭を下げたのは野宮家家令、日野章太郎だった。  背中から打ち込まれた弾丸は一寸の狂いなく晴也の心臓を打ち抜いていた。即死の状態で倒れ込んだ彼を囲むようにして立った刑事は皆、腕時計を確認した。 「――二十三時五十一分、被疑者死亡を確認。自殺と判定……」 静かにそう呟いた彼らの側に歩み寄った章太郎は、再び頭を下げた。 「お手数をおかけして申し訳ありません。上層部の方へは追ってご連絡申し上げます」 丁寧に、そして誰よりも落ち着いた声でそう告げた彼は、駈たちを追うように倉庫をあとにした。 その頃、車に乗り込んだ駈は腕の中で眠る輝流を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。 「終わった……。すべて、終わった……」  唇を噛みしめ、溢れた涙が頬を伝う。胸元に顔を寄せる輝流の唇に滴が落ち、愛らしい唇を濡らした。  野宮家当主の名を取り戻した駈は両親が残した富と政界をも揺るがす力、そして最愛の伴侶を手に覇者への扉を開いた。  恐れるものは何もない。ただ、人知れず流す涙だけは輝流に捧げよう。十七年間愛し続けた男にだけは、自分の全てを曝け出そうと決めていた。 「俺の強さも弱さも、悦びも憂いも……全部お前のモノだ。輝流……」  濡れた唇を啄むようにキスを繰り返す。  助手席のドアが開き、章太郎が乗り込んでくると同時に車は静かに発進した。  どす暗く、どこまでも続く水面はその先で照らす船の明かりによって、白く縁取る波を美しく見せる。  暗闇でも目を凝らして、手探りで何かを見つけられる。  そう――それはとても美しく尊いもの。時に儚く、脆いものではあるが、大切に包み込んで守ることは出来る。  駈は腕の中で眠る『運命の番』を見つめ、この世で唯一無二の存在を実感する。  数分後には抑制剤の効果が切れ、目覚めて欲情し求める。  勝気で可愛い伴侶への『お仕置き』を考えながら、駈は沸々と湧き上がる独占欲に口元を綻ばせた。

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