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犬は悪夢をみる
犬塚は夢を見ていた。
懐かしい───悪夢だ。
幼い頃に両親を事故で失い、身寄りの無かった犬塚は孤児院に預けられた。
純潔の日本人だった犬塚は他の子供たちよりも体が小さく、イジメの対象になった。
孤独でひもじくて、いつもケガをしていた。
ある日、優しげな中年男性が犬塚を迎えに来た。その男性に連れられて、犬塚は孤児院を出た。
『ある方が君を引き取ってくださるんだよ。外国の大金持ちでね。広いお屋敷で美味しいものがたくさん食べられるよ』
ニコニコと笑顔で言う男性に勧められて、甘い茶を飲んだ。
深く眠りと浅い眠りを繰り返し、目覚めたときには広いお屋敷の大きなベッドの上だった。
こんなに柔らかな布団の上で眠ったのは久しぶりだった。
ドアが開き、背が高く腹の出た白人の中年男性が部屋に入ってきた。
この人が自分を引き取ってくれたのだろうか?
ぼんやりと見上げた男がいやらしい笑みを浮かべた。
この日から、犬塚の地獄は始まったのだった。
───体が痛い。苦しい。
初日に無理やり抱かれて、犬塚は血まみれになった。
『日本人はいい。体が小さく、肌が柔らかだ。それに子供でいる期間が長い』
男はペドフェリアだった。
白人の大きなペニスを受け入れさせられ、犬塚は毎回傷だらけになった。
抵抗をするので何度も殴られた。
行為の後は住み込みの医者に手当てをされて、大きな犬用のゲージの中で眠った。
男を受け入れるのに慣れ、表情を失った犬塚を、男は媚薬や玩具を使って泣かせて遊んだ。
散々おもちゃにされ、しょっちゅう高熱を出していた。
───熱い。苦しい。
「うぅ……」
犬塚が苦しげな呻き声をあげたとき、そっと額に何かが触れた。
骨張った男の手だ。
医者はいつも医療用の手袋をして、汚物に対するように犬塚に触れたし、ペドフェリアの男はセックス以外では触れてこない。
───誰? 誰だ。
優しく髪を梳き、ひんやりした手のひらが額に触れた。
ひどく懐かしい感触に思えた。
犬塚は重い瞼を上げた。
───ここは、どこ?
頭が少し混乱していた。
あのペドフェリアの変態男はブランカが殺した。ここは日本だ。
自分はもう幼子ではない。
今、自分を捕らえているのは……
ようやく現状を把握する。
懐かしい、嫌な夢を見ていたのだ。
カチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえた。
横を向くと竜蛇がいた。
持ち込んだであろうパーソナルチェアに座り、オットマンに長い脚を乗せている。
またノートパソコンで仕事をしているようだった。
ぼんやりと竜蛇を見ていると
「起きた? 犬塚」
ディスプレイを見たまま竜蛇が声をかけた。
「……」
しばらくして、パタンとノートパソコンを畳み、竜蛇が犬塚を見た。
「だいぶ熱が下がったね」
手のひらを犬塚の額に当てて確かめ、そのまま長い指で髪を梳いた。犬塚はされるがまま、ぼうっとしている。
「そんな顔も可愛いよ。犬塚」
竜蛇は笑って、水差しからグラスに水を注いだ。
犬塚を抱き起こし、ベッドヘッドに枕を重ねて背をもたれさせる。
「飲んで、犬塚」
唇にグラスの縁が触れた。水の香りを嗅いで、初めて喉がカラカラだったことに気付く。ゴクゴクと水を飲み干した。
「もっと飲む?」
犬塚はじっと水差しを見つめた。
竜蛇はもう一杯水を入れ、犬塚に飲ませた。
「口を開けて。種も無いし、皮ごと食べられる」
竜蛇は空になったグラスを置いて、水差しの横に置かれた果物から葡萄を選んだ。
犬塚の唇に葡萄の実を触れさせた。
甘い匂いに、犬塚は自然に唇を開いた。口に含み、噛むと水々しい果汁が口内に溢れた。
「もっとお食べ」
竜蛇の勧められるままに、葡萄を口に入れた。
───どうして、俺は竜蛇の思うように反応している……?
「解熱剤だ。口を開けて」
今度は白い錠剤を口に入れ、再び水を飲まされた。
竜蛇は大げさでもなく、嫌な顔をするわけでもなく、犬塚を嘲笑うでもなく……淡々と流れるように自然に犬塚の世話をしている。
あまりにも違和感を感じなかったので、無意識に従ってしまった。
「もう少し休むといい」
再びベッドに寝かされた。
竜蛇はチェアに座り、前屈みになり犬塚を見ていた。片手で頬杖をつき、もう一方の手は、犬塚の髪を梳きながら。
───これも、夢か?
犬塚は熱でぼんやりとした瞳で、竜蛇の琥珀の瞳を見つめた。
竜蛇は笑みを深めた。
薬が効いたのか、犬塚は再び眠りに落ちた。今度は夢も見ないくらいに深く眠った。
次に目覚めたときには、竜蛇は居なかった。
ベッド横のサイドテーブルには、ガラスの水入れは無く、ペットボトルのミネラルウォーターが置かれているだけだった。
うつらうつらと意識の沈殿と浮上を繰り返して、犬塚はようやく重い体を起こした。
「う……」
頭がクラクラした。全身が気怠く、身体中が痛む。
一度ベッドの端に座り、一息ついてから立ち上がる。
ふらつきながら、壁沿いに歩いてバスルームに向かった。
洗面所の鏡の前に立って見ると監禁初日と同様、意識の無い間に手当てをされたようだ。
外された関節部分は布地のテープで固定されていた。
鏡に向かって舌を出す。針が貫通した痕はどこにも見当たらなかった。
犬塚が用を足して、バスルームを出ると竜蛇がいた。
また電話で誰かと話しているようだった。
竜蛇は犬塚を見て、人差し指を立てて唇に当てて見せた。
犬塚は黙ってベッドに腰掛け、静かに待った。
「今、犬を飼っていてね。熱を出してしまって、目が離せないんだ」
犬とは自分のことだろう。犬塚は少しだけ竜蛇を睨む。
「ああ。14日なら大丈夫だ。いつものバーで会おう。志狼」
竜蛇は電話を切った。
「いい子で待っていたね。犬塚」
「誰が犬だ」
睨んでくる犬塚に竜蛇は笑みを深めた。
「回復が早い。流石に鍛えているだけあるね。ちゃんとシモの世話もしてあげようと思っていたのに。残念だよ」
舐めるような竜蛇の視線にゾッとして、犬塚が身を引いた。
「冗談だよ」
竜蛇の言うことはどこまでが本気で、どこまでが冗談なのか分からない。
ふと良い香りがして、見るとベッドサイドのテーブルにスープを乗せたトレイが置かれていた。
「もう一人で食べられるだろう」
竜蛇はそれだけ言うと、犬塚に背を向け、ソファに座って仕事を始めた。
まだこの部屋にいるつもりのようだ。
背を向けてはいるが、竜蛇には隙が無い。
スープ皿もスプーンも、いつも通り使い捨てのちゃちなプラスチック製で武器にならない。
───何を考えている? 竜蛇。
幼い頃に犬塚を飼っていたペドフェリアの男と、竜蛇も同じだと思っていた。
だが、何かが違う。
───酷いことをされているのに。
竜蛇が犬塚を犯したのは、囚われた最初の夜だけだった。
拷問も受けた。犯されもした。言葉で辱められた。
それなのに……何が違う?
犬塚は睨むように竜蛇の背中を見ていたが、やがて視線を外してスープを飲み始めた。
まずは体力を回復させなければ。
犬塚が静かに食事を始めた音を聞きながら、相変わらず竜蛇は書類をめくり、キーボードを操作していた。
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