42 / 151

迷い犬2

縛られて床に転がされた青年は息をひそめてじっとしていた。そっと犬塚の様子を伺う。 ───眠った? 犬塚は抱えた両膝に顔を埋めて、ぴくりとも動かない。 青年はできるだけ物音を立てないように、腕の拘束を緩めようもがいた。きつく縛ってあったが、フェイスタオルは徐々に緩んできた。 ……もう少し。 どうにか片腕をタオルから抜くことができた。青年は犬塚から視線を外さずに、そっと足を縛るタオルを解いた。 音を立てないように、静かに体を起こす。 逃げて、警察を呼んで……最初はそう思っていた。 ───彼の裸を見るまでは。 犬塚の体には、縛られた痕がくっきりと残っていた。それに赤い鬱血の痕も。あからさまな情事の痕跡だった。 「……」 小さくなって眠る犬塚を見て、青年は思った。彼は誰かから逃げてきたのだろうか。 自分と年齢は変わらないくらいだろうが、眠っている姿は幼く感じた。 くせのない黒髪に象牙色の肌。目の形や顔立ちは日本人特有の民族的特徴がある。もしかしたら、生粋の日本人かもしれない。 ───彼を見ていると思い出す。失った友人の事を……。 大学時代、仲の良い友人がいた。 彼も黒い瞳をしていて、純潔の日本人だった。 幼い頃は髪を金に染めて、日本人らしさをわざと隠していたらしい。 当時は日本人の子供を狙った人身売買組織が問題になっていた。行方不明になった子供も多くいた。 友人は成人してからは素のままでいるようになった。 ある日、同じ大学の顔見知り程度の奴から「OBから飲み会に呼ばれている」と自分と友人に声をかけられた。断ればそいつの面目が潰れるからと頼みこまれた。 自分はバイトの都合で参加できなかったが、友人は一人で参加した。 ───そして、OBの連中から輪姦された。 後で知ったが、在学時代から良くない噂のある連中だった。特に日本人の血が濃い男や女をターゲットにして、クスリを飲ませて乱暴をしていたのだ。 最初から友人が狙いだった。警戒させないために自分と一緒にいる時に声をかけたのだ。 丸一日かけてレイプされ、ボロボロになった友人は自分の所に逃げてきた。 嫌がる彼を説得して警察へ行った。 だが、OBの一人の父親が警察関係者の上の方の奴で、結局もみ消された。 逆に友人の方から誘ったのだろう、クスリ欲しさに股を開く淫売だと罵られ、噂を広められた。 友人は自殺未遂をして、田舎の両親の元へ引き取られた。 ───それきり……会っていない。 犬塚の黒い瞳は友人を思い出させた。 青年は音をたてないようにそっと立ち上がった。犬塚が目覚める気配はない。 「……」 そして、静かに犬塚から離れた。 空腹を思い出させるような良い香りがして、犬塚は目覚めた。少しの間ぼんやりとしていたが、ハッとして跳ね起きる。 ここは監禁部屋じゃない。逃げ出したのだ。 いつのまにか深く眠っていたらしく、自分の体に毛布が掛けられていた。 「起きたの?」 「!?」 拘束していたはずの青年がキッチンに立っていた。犬塚は青年を見てすぐに銃を構えた。 「落ち着いて。何もしない」 青年は両手を上げて犬塚を見ている。 「……何故、銃を奪わなかった。何を企んでいる? 通報したのか?」 「通報はしていない。警察は当てにならないって経験済みだし」 青年は静かに犬塚に話しかけた。 「君は逃げてきたんでしょう」 「……」 「その……縛られた痕や、体中に痣が……」 犬塚は羞恥を感じ、わずかに頬を染めて怒鳴った。 「うるさい! 何を考えている!?」 両手を上げたまま、真摯な眼差しで青年は言った。 「君の助けになりたいんだ」 「……」 「君は純潔の日本人じゃないかな? 僕にも昔、純潔の友人がいたんだ。彼は日本人を狙った悪い奴らに乱暴されて……自殺未遂をした」 「……それがどうした」 「僕はあの時、友人を救えなかった。もうあんな思いはしたくない。君の助けになりたいんだ」 犬塚は疑わしげに青年を睨んでいたが、嘘をついているようには見えなかった。 「信じて欲しい。お願いだ。怪しいと思えば、僕を撃って逃げればいい」 犬塚は迷った。この青年の言葉を信じるなど、愚かなことだと思う。 誰も信じるなと、ブランカから教わって生きてきた。 だが、どこにも行ける場所など無い。どうせすぐに竜蛇に捕まるだろう。 少しの間、この茶番に乗ってやろうかと気まぐれをおこした。 犬塚は銃口を下げた。 「怪しい真似をすれば、殺す」 「分かった」 青年はほっとしたように微笑んだ。 「僕は新見佑樹(にいみ ひろき)。君は?」 「……犬塚」 この時、この気まぐれの選択が、竜蛇との関係に変化をもたらすとは……犬塚は思いもしなかった。

ともだちにシェアしよう!