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懐かしい記憶1
昼前になって犬塚が目覚めたとき、竜蛇はすでにいなかった。熟睡していて、竜蛇が出て行ったことに全く気付かなかった。
「……くそっ」
まただ。気が緩みすぎだ。
あの倉庫での仕置きが効いて、体が本調子ではないこともあるにはあるのだが……。
犬塚はバツの悪そうな顔で起きあがり、ベッドから降りた。ふと窓の方を見て、陽の光を感じたくなり、窓辺まで歩いた。
ロックされているかと思ったが、予想に反して窓は普通に開いた。
犬塚は裸足のままバルコニーに出た。
冬の始まりの、まだ優しい冷たさが頬に心地よかった。
このマンションは竜蛇の持ちものだと言っていた。
首輪も足枷も付けられたままだが、あの監禁部屋にいた頃よりもずっと自由を許されている。
ここには屈強な見張りの男はいない。若い女がいるだけだ。
犬塚が逃げないと、分かっているのだろう。逃げるつもりはないが……今でも複雑な気持ちだ。
犬塚は室内に戻り、時計を見た。
11時過ぎだ。犬塚は裸足のまま部屋を出て、少し散策することにした。
長年身に付いた癖で、足音を消して廊下を歩いた。だが、足首に付けられたチェーンがシャラシャラと床を擦り、小さな音を立てた。
別の部屋のドアを開けてみると、上質なアンティーク調の本棚に本だらけの部屋だった。
意外にも竜蛇は読書家らしい。
部屋に入り、適当に一冊手にとってパラパラとめくった。犬塚は読書なぞしないので、興味なさげにすぐに戻した。
今まで知らなかった竜蛇の姿を垣間見た気がして、不思議な気持ちになった。
部屋を出ると、微かに物音が聞こえてきたので、音のする方へと犬塚は歩いて行った。
涼が言った通り、竜蛇の家は広かった。どうやらマンションの最上階を改装して、ワンフロア全てを使っているようだ。
廊下を歩いて進むと、キッチンに誰かがいる。
そっと様子を伺うと、涼が何やら作っていた。野菜を切る包丁の音は犬塚の脳裏に懐かしい記憶が蘇えらせた。
ブランカに拾われたばかりの頃だ。まだ殺し屋としての教育が始まる前だった。
街外れの古い一軒家で二人は暮らしていた。
ずっとゲージで寝食をし、金持ち男の玩具だった犬塚には、おおよそ人間としての常識が無かった。
まず、食事の時にスプーンやフォークなどの食器を使っていなかったのだ。初めてブランカに出された食事を犬塚は手を使わずに犬のように食べた。
『よせ』
呆れたようなため息と共に、冷たい声で止められた。
『人間の食事のしかたじゃない。目の前で犬食いなんぞされたら、気分が悪い』
犬塚は小刻みに震えた。ブランカを不快にさせてしまったのだ。でも、ずっとこんな風に食事をしてきた。
どうしてよいか分からず、犬塚は口を汚したまま動くことができずに小さく震えていた。
そんな犬塚を無視して、ブランカは皿を下げた。
タオルを犬塚に放って『拭け』と、言った。犬塚は汚れた口元を慌てて拭いた。
ブランカはキッチンに立ち、何やら作りはじめた。背が高く、広い背中を犬塚はじっと見つめた。
野菜やハムを挟んだサンドイッチだった。皿に乗せ、ダイニングテーブルの上に置いた。
『コレは手で食べていい』
サンドイッチを手に持って、一口食べて見せた。
『食え』
犬塚は恐る恐る手に持って食べた。サンドイッチは食べやすいように4当分に切られていた。
それきりブランカは犬塚に見向きもせず食事に集中した。
今思えば、犬塚は厄介な子供だったと思う。
食事の仕方、挨拶の仕方、字の読み書き、本来ならば出来て当たり前の事が出来ない犬塚に、ブランカは根気強く、厳しく教えた。
それに、ブランカは料理も上手かった。外食はあまり好きではないようで、いつも食事はブランカが作っていた。
ブランカの作ったスペイン料理を初めて食べた時『美味しい』と呟いた犬塚に、ほんの少しだけブランカは唇の端を上げた。
ブランカは全く笑わない男だった。激昂する事も無い。
感情の変化も少なく、つかみどころの無い男だった。いつでも乾いた北欧のような空気を纏っていた。
でも時折、ほんの少しだけ唇の端を上げて微かに笑った。
それが笑った顔なのだと犬塚が気付いたのは、ずっと後のことだったが。
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