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懐かしい記憶2

スペイン風オムレツの、確かトルティージャという料理だった。 そんなことを考えながら、ぼんやりと立っていると、涼がふいに振り返った。 「きゃあ!」 背後に立っていた犬塚に気付いて飛び上がった。 「ちょっと! びっくりするじゃない! 殺す気!?」 涼は耳からイヤホンを外して、怒ったように犬塚を睨んだ。iPodで音楽を聴きながら料理していたらしい。 「……悪い」 少しバツが悪そうに犬塚は謝る。 「いくら俺が殺し屋でも、あんたを殺したりしない」 犬塚の言葉に涼は目をまん丸にして、すっとんきょうな声で言った。 「あなた、殺し屋なのぉ?」 「あ、ああ」 涼は驚いた顔から呆れた顔になった。 「本当に? マジで? ガチで?」 「そうだ」 最も、最近の犬塚は殺し屋失格もいいところで、少し気まずそうな顔で答えた。 「……あのアホ組長め」 「は?」 涼の言葉に今度は犬塚が目を丸くした。 「最初は犬の世話だって言ったくせに、本当は人間の男で恋人だったし。今度は殺し屋? あたしの身の危険とか、考えないのかしら」 少しムカついたように涼が言うので、犬塚はもう一度言った。 「あんたを殺したりしない」 「それは分かってる。たださぁ、世話する相手が殺し屋なら、教えてくれてたっていいじゃない、と思ったわけですよ。あの変態組長め」 「……」 犬塚は戸惑った。あの竜蛇の事をそんな風に言う女がいるとは。しかも、涼は竜蛇の部下のはずだ。 「あ。本人いないところで可愛い悪口言うのはノーカンだから大丈夫よ。ニヤけ顔のどSヤクザの変態組長。犬塚さんも言ってみたら?」 涼はニカっと笑って犬塚に言った。 「さぁ、どうぞ」 「……」 「ノリ悪いんだから」 ふぅとため息をついて、再びキッチンの方を向いた。 「お腹空いたの?」 「……いや」 「コーヒー飲む?」 「自分で淹れる」 涼は「どうぞ」と言って、スイス製のエスプレッソマシンを指差した。そして、料理の下準備を再開した。 犬塚はなんとなく料理をする涼の手元を見ながら、エスプレッソマシンで淹れた熱いコーヒーを飲んだ。 ……美味い。 思えばコーヒーを飲むのも久しぶりだった。ガウンだが、服を着るのも久しぶりだ。 一カ月と少し。 あの白い牢獄に監禁されていた事を考えれば、こんな風にのんびりとコーヒーを飲んでいる事の方が非現実的に思えた。 しかも監禁していた張本人である竜蛇の家なのだから。 犬塚は立ったままコーヒーを飲みながら、ブランカの事を考えていた。 ブランカもコーヒーが好きで豆には拘っていた。 犬塚自身は食に拘りは無く、栄養になれば構わないと思っている。だが、ブランカは拘っていた。 決してファストフードなど食べなかったし、犬塚にもジャンクフードを食べさせなかった。 野菜や肉料理を彩りよく盛り付けていた。食器には拘りは無いようで、皿は白いシンプルなものだった。 ブランカに拾われた頃、12歳だというのに犬塚の体は細すぎだった。背が伸び、まともに成長できたのはブランカの食事のおかげもあったかもしれない。 ペドフェリアの金持ち男の趣味で髪も長く伸ばしており、中性的で少女のようだった。 『座れ』 ブランカに連れ帰られたばかりの頃だ。 ある朝、犬塚はブランカにそう言われて、素直に椅子に座った。 ブランカは床に新聞紙を敷いており、犬塚の肩にタオルをかけて首元で留めた。 ハサミを手にして犬塚の背後に立ったブランカに犬塚は怯えたが 『動くな』 と抑揚のない声で言われ、大人しく座ったままでいた。 大きな無骨な手が、犬塚の細い髪の量を確かめるように数回梳いた。そして、シャキシャキと迷い無くハサミを入れていった。 とても不思議な感覚だった。 ブランカは一通り切り終えて、首元のタオルを外した。 『流してこい』と、犬塚に告げて、さっさと片付けを始めた。 『……』 犬塚は無言でバスルームへ向かった。 鏡で自分の姿を見ると、短くなった黒髪は普通の少年らしく感じた。 ブランカは金持ち男のように、犬塚を使うことはしなかった。 必要以上に哀れむことも、優しくすることも無かった。 ただ、淡々と生活をしていた。 それでも犬塚にとって、ブランカは神様のような存在だった。彼がいなければ、自分は生きてはいなかったろう。 あの無骨で静かで、背が高く、広い背中をぼんやりと思い出していると…… 「あ! あ!」 「!?」 突然、涼が声を上げた。 「その顔、組長の前ではダメだよ」 「何がだ?」 「他の男のこと、考えてる顔」 犬塚はカッとして言い返した。 「違う! そんなんじゃない」 「そう? でも気をつけてね。組長って、めちゃくちゃ嫉妬深い気がするし」 涼はしれっと言って、調理を再開した。

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