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ブランカと養い子2

『あなたを責めている訳じゃないのよ。マナーはね、相手を不快にさせない為だけじゃない。自分の為に必要なの』 彼女は落ち着いた声で話ながら、子供だったブランカの手にナイフとフォークを握らせた。 『どんなに上等の服を着ていても、マナーが無ければ見下されるわ。人は下品な人間を対等には見ないものよ。マナーはね、あなたを守る薄い鎧になるわ』 懐かしい記憶だった。ブランカの生まれ育った環境はひどいものだった。 彼女はブランカにあらゆる事を教えてくれた。厳しく、根気強く。 ブランカは改めて犬塚を見た。犬塚は両手でサンドイッチを持って、静かに食べている。 クチャクチャと音を立てずに食べているだけ、ブランカの子供の頃よりもマシかもしれない。 ブランカ自嘲気味に思った。 三日後。 意外にも犬塚とブランカの生活は安定していた。犬塚はブランカとの生活に早くも慣れたようだ。順応性が高いのだ。 それに、飼い主を不快にさせないよう、躾られているのだろう。 ブランカは犬塚の飼い主になる気など、さらさらないが……。 教えなければならないことは多々あるが、注意すれば一度で覚えた。 犬塚はほとんど口を利かず、静かにじっとしていたので、特に邪魔とも感じなかった。 今日は犬塚を連れて出る予定だ。ブランカは寝室にいた犬塚をリビングに呼んだ。 「座れ」 素直に椅子に座った犬塚の背後にブランカは立った。 ハサミを片手に持ち、もう一方の手で犬塚の細い髪を何度か梳いた。 犬塚は髪を長く伸ばしており、まるで少女のようだった。 これでは連れ歩けない。ブランカがペドフェリアだと疑われてしまうだろう。 「動くな」 犬塚はハサミに怯えたが、ブランカの言葉に従った。 まるで、忠実な犬みたいだ。 ブランカはシャキシャキと犬塚の柔らかい髪を切り始めた。 当たり前の子供みたいに、犬塚の黒髪を短く切った。これなら特別目立つことはないだろう。 犬塚にシャワーで髪を流してこいと指示して、ブランカは切った髪の残骸をまとめて捨てた。   バスルームから出てきた犬塚に「これを着ろ」と、子供服を渡した。 今まではブランカのTシャツを着せていたのだ。 ブランカは190を超える長身で体格もいい。ブランカのTシャツは犬塚の膝丈くらいで、まるでワンピースのようだった。 犬塚はモタモタと服を着た。金持ち男に飼われているときは裸か女装をさせられていたので、ズボンを履くのに手間取った。 何度も金持ち男のズボンのボタンを外し、ジッパーを下ろして奉仕してきたので、ズボンの履き方は知っていた。 だが、スニーカーの履き方は難しかった。 靴紐を結ぶ事ができないでいる犬塚を見て、ブランカは頭が痛くなった。 ───ああ、なんてことだ。この日本人の子供は靴も履けないのか。 「座れ」 犬塚は床に尻をついて座った。ブランカは履きかけのスニーカーを脱がせて手に持ち、掲げるようにして告げた。 「手伝うのは今日だけだ。覚えろ」 きちんと靴を履かせて靴紐を結んで見せて、もう一度解いた。 「やってみろ」 犬塚は靴紐を結ぼうとするが上手くいかない。ブランカはぐちゃぐちゃになった靴紐を解き、何度でも犬塚に靴紐を結ばせた。 「もう一度だ」 結局、犬塚が一人で靴紐を結べたのは30分後だった。 ブランカは犬塚を連れて家を出た。 車に乗せたが、案の定、犬塚はシートベルトのしめ方を知らなかった。 ブランカは靴紐の時と同じように教え、次からは一人でやるように言った。 車を50分ほど走らせ街まで出た。少し寂れた地区まで入り、ブランカは車を止めた。 「降りろ」 車から降りて、犬塚を連れて古びたアパートへと入っていった。エレベーターは使わず階段で三階まで上がる。一番奥の部屋まで進み、ベルを鳴らした。 「遅い。珍しいじゃないか。君が遅刻なんて」 ドアが開き、男が文句を言った。 「……」 ブランカは無言で部屋に入った。犬塚は慌ててブランカを追いかけて部屋に入る。 「隠し子か?」 「違う」 犬塚は少し怯えたように、ブランカの上着の裾を掴んだ。 「君に懐くなんて物好きな子供だな。悪趣味だ」 「うるさい」 男はしゃがんで犬塚に視線を合わせた。 「やあ。ぼくはギデオンだ。お医者さんだよ」 「もぐりのやぶ医者だ」 「……ブランカの言うことは気にしないでいいよ。彼とは古い付き合いだ。冗談を言っているんだよ」 ギデオンと名乗った男は、60代後半くらいのスラリとした細身の白人だ。白髪交じりの金髪に、緑の瞳が優しそうな印象だった。 「病気を持っていないか調べてくれ」 「君ねぇ。犬猫じゃあるまいし」 ギデオンは呆れたようにため息をついて立ち上がる。 「おいで、え~と……お名前は?」 「……」 犬塚は黙ったままだ。そう言えば名前を聞いていなかったと、ブランカは今更ながら気付いた。 「お前。名前はなんだ?」 「……わからない」 ブランカは何度目かの頭痛に襲われそうだった。名前すら知らないのか。 「……そう。じゃあ少年よ。こっちの部屋に行こうか」 ギデオンに呼ばれ、犬塚はさらに怯えた顔でブランカの服を強く握った。 「もぐりだが、腕はまぁまぁだ。診てもらえ。俺はコーヒーでも飲んでいる」 「……君ねぇ」 犬塚はブランカの言葉に安心したのか、掴んでいた裾を離した。 「いやいや。ほんとに懐いてるね。不思議だよ。こんな不愛想な男に」 「うるさい」 ギデオンは奥の診察用の部屋に犬塚を連れていった。 ブランカは勝手知ったる様子で、キッチンでコーヒーを淹れて椅子に座った。 「相変わらず酷い豆を使ってるな」 ぼやきながら熱いコーヒーを啜って、持ってきた新聞を読んだ。 ブランカが殺したペドフェリアの男は、あれでも大富豪の一族の端くれだった。だが、幼い子供を何人も飼ってきたのだ。 捜査の手が愛玩用の子供の売買にまで及ぶことを恐れた一族の手によって死因は隠されていた。 謎の病死として初日だけ新聞に載っていたが、今日の新聞には話題にもなっていなかった。 ブランカがコーヒーを飲み終わり、ギデオンがテーブルに置いていたゴシップ誌をパラパラと読んでいると、犬塚が診察部屋から出てきた。 「おまたせ。ブランカ、ちょっと」 「座って待て」 犬塚は素直に椅子に座った。ブランカは入れ替わりに診察室に入る。 「あの子。どこで拾った?」 「仕事先でだ」 ギデオンは盛大にため息をついた。 「で?」 「……ああ。今分かる限りでは痩せてるけど健康体だ。性病も無し。血液検査の結果はまた電話する。かわいそうに、あの子。長いこと性的虐待を受けてる」 ギデオンはブランカを見て尋ねた。 「……どうする気だ?」 「……殺しはしない」 「その言葉、喜んでいいのか……微妙だな」 ギデオンは緑の瞳を細めて鋭い視線を寄越したが、ブランカは涼しい顔で受け流した。 「結果が分かったら電話しろ」 多めに診察代を渡し、ブランカは診察室を出た。

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