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名前2

ホテルへ戻ったブランカは馬頭から受け取った資料にじっくりと目を通した。竜蛇に接触するまで五日。準備をするには充分だ。 「……」 槙村幸人。犬塚の本当の名前。 ブランカは犬塚を「お前」「日本人」と呼んでいた。犬塚はブランカが呼べばすぐに反応した。それこそ犬のように。 まだ犬塚が子供だった頃だ。仕事で海外に行っている間、ギデオンに犬塚を預けていた。 犬塚を引き取りに来たブランカにギデオンは嫌味ったらしく言った。 「お土産は?」 「無い」 「まったく。勝手な男だよ」 「金なら多めに渡しただろう」 ギデオンはブランカをジト目で見たが、ブランカは無視して犬塚を呼んだ。 「来い」 「バイバイ。アキラくん」 ギデオンが犬塚をアキラと呼んだので、ブランカは足を止めた。 「……アキラ?」 「この子の名前だろう。君がアキラって呼んでるって」 ブランカは不快そうに眉根を寄せたので、犬塚は怯えたようにブランカを見上げた。 「それはお前の名前じゃない」 「……ごめんなさい」 「いいじゃないか。いい名前だと思うよ。だいたい名前が無いなんて不便だ」 「特に困らない」 「そうかい。でも僕は困るよ。僕はアキラと呼ぶ事にしたからね」 顔を青くして硬直している犬塚にギデオンは「気にしなくていいよ。この男は偏屈なんだ」と笑いかけた。 ブランカはギデオンをじろりと睨んだが、ニヤニヤしながら自分を見ているギデオンにため息を吐いて踵を返した。 「帰るぞ」 「ブランカ。アキラ。またね」 ギデオンはひらひらと手を振った。 それからギデオンは犬塚をアキラと呼んでいたが、ブランカが呼ぶ事は無かった。その事に犬塚は何も言わなかった。 相変わらず「おい」「お前」「日本人」と呼ぶブランカに従順に従っていた。 他の子供達を殺し屋として仕込んでいた時、名前が無い事で犬塚が見下されていた事には気付いていた。だがブランカは何もしなかった。 自分を見下し、押さえつける奴らには自分自身で勝たなくては、いつまでも弱いままだ。 自分の力で勝たなければ。 誰かが助けてくれるなどという出来事は奇跡のようなものだ。人生において助けの手など滅多にさし延ばされる事など無い。 それに……ある日突然失われる事もある。 穏やかな日々は終わり、孤独に堕とされても…… ひとりでも強く生きなければならない。 馬頭に犬塚の名前を調べさせたのは竜蛇だろうか。ブランカは手にした写真をじっと見た。 竜蛇のマンションのベランダにいる犬塚の写真だ。望遠レンズで撮られており少しぼやけているが、裸のまま竜蛇とキスをしていた。 愛人として囲っているのだと馬頭は言った。犬塚は自ら竜蛇の頭を引き寄せている。 「……」 ブランカは写真をローテーブルに置いて、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。 日本に残り犬塚を取り返すとすでに決めている。今更、計画を変更するつもりはブランカにはなかった。

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