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アキラ1
それはブランカらしくない行動だった。
なぜ犬塚を見捨てきれないのか、ブランカ自身も不思議に思っていた。
ブランカは犬塚を生かしたが、愛しはしなかった。高熱を出して死にかけたときも放置したし、ブランカが犬塚に教えたのは人の殺し方だ。
竜蛇に接触する前日、ブランカはホテルの部屋でひとり、明日の準備をしながら昔の事を思い出していた。
集中する必要があるというのに、なぜ今そんなことを思い出すのか。それすらも不思議なことだった。
馬頭に死相が出ていると言われたが、当たらずともいえど遠からずだ。
自分は竜蛇に殺される運命ではない。だが、こうして昔のことばかり思い出すのは死期が近いからなのかもしれない。
───もう40年以上前のことだ。
古いアパートの階段で少年だったブランカは座ってチョコバーを食べていた。
住人は低所得者ばかりだ。まともな仕事をしている者は少ない。売れない画家、音楽家きどりのヤク中、一日中部屋にいるアル中の夫と夜勤で働いて酒代を稼ぐ妻、そして売春婦。
部屋では母親が客をとっていた。あと一時間は部屋に戻れないだろう。きっとまた母親はシャワーも浴びずに汗臭いベッドで眠ってしまう。
ブランカは部屋に戻ることが憂鬱で仕方がなかった。母が客とセックスした直後の部屋は嫌な臭いがした。だが今夜は帰らなくてはならない。手持ちの金が底を尽きたのだ。
近所のガキから巻き上げてもいいが、頻繁にやるのは賢くないやり方だ。
全部は盗らない。細く長い付き合いが大事だ。
小金持ちのガキからボディガード料金として小遣いの6割を貰うのだ。
ブランカは11歳にしては背が高く体格もよかった。喧嘩は負け知らずだった。父親に似たのだろう。
───父親。
母は父のことを立派な海兵隊だと言っていた。シリアで死んだのだと話してくれたが、それは嘘だと教えてくれたのは“親切”なアル中の隣人だ。
客の一人に母が一方的に惚れこんだのだと。しかも男は不名誉除隊になったろくでなしだった。
母は路上には立たず、自分の部屋で客を取っていた。男は用心棒きどりで部屋に転がり込み、しばらくはヒモ同然で母と住んでいた。
けれど母が妊娠した途端にあっさりと出て行ってしまった。
結局、母は一人でブランカを産んで育てた。育てたといっても温かい家庭とは程遠く、ほとんど放置されていたのだが……。
ブランカはチョコバーを食べきって、くしゃくしゃに丸めた包み紙を投げた。包み紙は階段の下へと落ちていき、踊り場で止まった。
手すりにもたれかかって目を閉じていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
コツコツと小気味好いヒールの音。
上の階の立ちんぼの男娼だろうか。そいつはスカートは履かないが、靴だけはバカみたいにツヤツヤのエナメルのハイヒールを履くのだ。
靴音はチョコバーの包み紙の手前で止まった。目を開けて見ると、ターコイズブルーのネイルの指先が包み紙を拾うところだった。
「これはあなたの?」
女は包み紙を拾って顔を上げてブランカを見た。知らない女だ。
ヒスパニック系で目鼻立ちがはっきりした美人だ。豊かな黒髪を無造作にアップにしていた。黒いTシャツにジーンズという色気のない格好だがスタイルがいい。二十代後半か三十代前半だろう。化粧っけはないが魅力的な女だ。
「………」
ブランカは黙って女を睨んだ。女は気にした様子もなく、コツコツと階段を上がってきた。
「部屋の外にゴミを捨てないでね」
そう言ってブランカの膝の上に包み紙を落とした。
「なにすんだクソアマ!」
ブランカは立ち上がったが、二段上に立つ女に見下ろされる形になる。女と真正面から目が合い、言葉に詰まった。
女の目には力があった。唇には薄く微笑を浮かべている。
深夜放送で見た映画のゴーゴンに石にされてしまった男みたいに、妙な迫力に押されて、女を見つめたままブランカは黙り込んだ。
「クソアマじゃないわ。昨日、三階の部屋に越してきたの」
女は飄々とした態度で手を差し出した。思わず握り返すと女はニッと歯を見せて笑った。気取った感じのない綺麗な笑顔だった。
「ブランカよ。あなたの名前は?」
「あ、アキラ」
11歳のブランカは───いや、アキラは女のペースに乗せられて名前を名乗っていた。アキラは母親がつけたブランカの本当の名前だ。
「クラシック・アニメのタイトルね。それに有名な日本映画の監督の名前だわ」
アキラは少し驚いてブランカを見た。
たいていはアキラという名前に「日本人には見えない」「おかしな名前だ」と言われる事が多い。
黒人の血を引いた自分の肌は黒く、顔立ちもそうだ。アジア系の母親に似たのは切れ長の目の形くらいだろう。
「いい名前ね。あなたに似合っているわ。よろしく、アキラ」
「………」
それがアキラとブランカとの出会いだった。
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