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災難 2
『す、すみません! スマホを下に落としてしまって、それで……一瞬目を離したせいで……。その、修理代は……』
そこで岩城は任意保険に入ってなかった事を思い出し、言葉を詰まらせた。だがそんな岩城を気にすることもなく、眼鏡男は主人の指示を仰ぐように、静かに後部座席へと視線を向けた。
『五十万だ』
後部座席に乗る男が、低い声でとんでもない額を示してきた。
『ご、五十万……!? そ、そんな……』
岩城は愕然とする。そんな大金、岩城に払えるわけがなかった。ホストと言っても、スーツなどの着るものから何から実費で用意しなければならない。
少ない給料で毎日がギリギリの状態なのに、五十万もの大金なんて、どうやっても簡単に出せる金額ではなかった。
このときに警察に行けば良かったのだろうが、岩城はパニックに陥り、しかも車に乗ること事態も、免許取ってから初めてのことであったため、勝手が分からずにいたのだ。
『とりあえず、免許証お持ちですか? それか貴方の身分を証明するもので構いません』
『は、はい……』
ロボットのように抑揚もなく淡々と告げてくる眼鏡男に、岩城は言われるがまま財布を広げた。
『あれ? おかしいな……免許証、ここに入れてるはずなのに……』
財布の中身をぶちまけたり、鞄の中を見るがどこにも免許証は見当たらない。
『もしかして免許証不携帯ですか? それはマズイですね』
『あ……』
窮地に追いやられた岩城は、もうすでに泣きそうになっていた。
『申し訳ありません……。その……名刺の裏に住所など記入で大丈夫でしょうか……? あの、一応ここで働いてますので……』
岩城本人はこの時も警察のことは頭になかったが、不携帯により、これで本当に警察に行くことは困難になってしまった。
名刺を見せると、眼鏡男はそれを一瞥だけして、直ぐに主人へと顔を向けた。
『いいだろう。二週間猶予をやる。それまでに必ず用意しろ。出来なかったら……分かってるな?』
もう、そのセリフだけでも十分だった。この男は若社長でも何でもなく、やくざに違いないと岩城は一人結論付けた。
(二週間なんて鬼だ……。このまま払えなかったら海に沈められるよな)
岩城は泣く泣く名刺の裏に名前、住所、電話番号を記して、眼鏡男におずおずと渡した。
『すみません、これ……』
『では、こちらは私の連絡先です。何かあれば直ぐに連絡してください』
『はい……』
眼鏡男から差し出された名刺を受け取り、颯爽と去っていく高級車を岩城は暫く呆然と見送っていた──。
こんな不幸話をネタに、軽く耀子に聞かせると、深く同情した彼女は、その日からドンペリを頼んでくれたのだ。
ホストなら喜ぶべきことだ。どんな戦法を使おうが、客に金を出させた者勝ちの世界。
それなのに罪悪感ばかりが募るのは、岩城は人が良すぎたのだ。その積極性がなく、客があまり付かない。本来ならホスト業など向かないのだが、岩城はスタッフに恵まれたこの環境が心地よく、辞めることまでは考えてなかった。
そして、耀子の好意に甘えてもいいのかと思う中でも、金の工面で頭が一杯の岩城は、少しの希望でもすがり付くしかなかったのだ──。
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