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長い一夜 2
佑月は一人になった事務所内で机に突っ伏していた。このまま家に帰ってやろうかと、そんな考えが頭に浮かぶ。
ガチャリと無機質な音が耳に届き、空気が動く気配を感じる。
甘く官能的な香りが鼻腔をくすぐり、佑月はゆっくりと顔を上げた。大きな手が佑月の髪を撫で、そして頬へと滑るように撫でていく。
「お帰りはないのか?」
一週間ぶりに聞くその声は、相変わらずいい声で甘い音色。妙に落ち着かない心臓に、自分の頬が少し熱くなるのを感じた。
「お、お帰りなさい……」
聞き取れるかも分からないような小さな声で佑月は言うが、須藤は満足そうに口角を上げる。
(何だよこれ……。落ち着けよ俺の心臓)
これから待ってる事への緊張ではなくて、今、佑月は須藤を前にどう対応していいのか分からずにいる。
「そんな顔、他の人間には絶対に見せるなよ」
「ど、どんな顔ですか」
顔を逸らそうとしたが、それよりも早くに顎を持ち上げられ、佑月の唇に少し冷たい須藤の唇が触れた。驚く間もなく、それは一瞬で、須藤は直ぐに身を翻し扉へと歩いていく。
「行くぞ。先ずは飯で腹ごしらえだ」
佑月が付いていかない事など全く頭にないかのように、須藤は先に事務所から出て行った。
何だか少し悔しい気持ちがある中、佑月は少し遅れて須藤の待つBMWへと乗り込んだ。
本日の夕食の場所は、赤坂の老舗高級料亭【雅】。初めて須藤との食事で訪れた場所だ。
その【雅】の門から出てきた一人の男。普通なら食事が終わって帰る客なのだろうと、気にも止めなかったのだが。
老舗の高級料亭、一見 はお断りの格式高い【雅】で、その男はあまりにもラフ過ぎる格好だったため、目を引いたのだ。
ボーダーの入ったサマーニットシャツに、デニムのクロップドパンツ、そしてキーリングデザインのネックレス。
控え目な色合いの外灯だが、そのシルエットを明確に浮かび上がらせていた。
そして、その男の顔を改めて良く見ると、佑月は思わず息を呑んだ。中性的というのか、とても綺麗な顔立ちをした青年だったからだ。
その男がこちらに視線を遣った瞬間、佑月は咄嗟に須藤の背中へと隠れた。
「あ! やっぱり! お帰りなさい。寂しかったですよ」
何やら親しげに話しかけてくる男。それも須藤に。しかも寂しかったという言葉が出るのは、相当付き合いが深い証拠。
(ふうん……やっぱり、他にもいるんじゃないか。まぁ、百戦錬磨の須藤が一人で満足するワケがないか。なんか、帰りたくなってきた)
「無視しないで下さいよ。こっちは仕事で来てたんですから。でもまぁ、もしかしたら須藤さんが現れるんじゃないかと、淡い期待はありましたけどね」
「お前に構ってる暇はない」
須藤は珍しく、心なしか佑月を男から隠すように立っている。
「相変わらず冷たいですね。あぁ、お連れ様がいらっしゃるんですね。それはどうも失礼しました」
慇懃に言葉を並べる男だが、何故か少し刺があるように聞こえた。
「ど~も、こんばんは」
「っ……」
不意に須藤の陰から顔を覗かせてきた男。一見邪気のない笑顔だが、何か嫌な悪寒が佑月の身体に走った。
驚いて言葉が出てこないでいると、須藤は「おい」と、怒気を含んだ声で男の腕を掴んだ。そして突き飛ばすように男を佑月から離す。
その時に見えた男の首筋。
そこには外灯に照らされた、黒薔薇のタトゥーが浮かび上がっていた。
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