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最悪の 3

 男は佑月の横を通り過ぎていく。だが佑月の足は根が生えたように、微動だに出来ずにいる。 「先輩? どうしたんですか」  海斗に腕を軽く引かれ、佑月は我に返る。 「あ……ご、ごめん」  だがどうにも体が言うことを聞かず、佑月は身体の向きを、ゆっくりとしか変えられなかった。その先にはずっと佑月から視線を外さず、微笑みを浮かべる男がいる。  海斗も佑月の様子が普通ではないと、嫌でも気付く状況だ。心配そうに腕から手を離さず、状況を見守っている。 「久しぶりだね、佑月」  よく響くバリトン。 一般的に聞けば、いい声と評されるだろう。でも佑月にとっては嫌悪感だらけだった。  ソファに深く腰をかけ、王者然としたこの男は、ここ【クラウンホテル】のオーナーだ。このホテルを選んだ訳はこういうことだったのかと、佑月は舌打ちしたい気分だった。 ──気分が悪い。  もう十年も経つことなのに、未だにこの男の存在を佑月の全身が拒否している。二度と会いたくなかった男。  円城寺 政孝(えんじょうじまさたか) 「いつまでも突っ立ってないで、座ったらどうだい? 佑月」  円城寺が目の前のソファを指し示して言うが、佑月は黙ったままでいる。 「あの……佑月先輩、知り合い……なんすか?」  この重苦しい空気の中、遠慮がちに海斗は尋ねてきた。 佑月はその問に「ちょっと……」としか返せないでいた。すると目の前の男は、心外だとでも言いたげに軽い溜め息を吐く。 「佑月……。ちょっと、とはなんだい? 私と佑月は──」 「これはどういうつもりですか」  続きを言わせないために、佑月はわざと円城寺に被せた。  佑月の過去は海斗らは知らない。そもそも、そんな惨めな過去は、出来るなら知られたくない。須藤、そして育ての親である昌樹と香住にはやむを得ない事情などで、自分の意思で話したことだが。  そうは言っても、海斗ら含め従業員を巻き込んだ騒動だけに、何も話さないわけにはいかない。だが正直、出来るならあの男に関して触れるのは、避けたいと言うのが佑月の本音だった。 「佑月、せっかちになったんじゃないのか?」  揶揄めいたセリフに、円城寺の後ろに立つ女もクスリと笑う。談笑はするつもりはないと、佑月が無視をすれば円城寺は苦笑を浮かべる。 「どうやら佑月は機嫌が悪いようだね。懐かしむ時間も与えてはくれないようだ……」  大仰に額に手をやり、首を振る円城寺に女は「時間はたっぷりございます。焦らなくてもよろしいではないですか」と囁く。 「そうだな。時間はこれからたっぷりとある」  円城寺はイヤらしい笑みを浮かべながら言う。その笑みにゾッと佑月の背筋が凍った。 ──や……め…… 「……佑月先輩?」  “佑月……いい子だね” ──やめ……ろ……  “佑月、ほら、ここがいいだろ?” ──やめてくれ……  “佑月、佑月……” ──触るな……  全身から血の気が引いていくように、佑月の手先が冷たくなっていく。 ──せっかく忘れていたのに……。

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