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最悪の 8
爪が手首にくい込むように握られ、佑月は咄嗟に腕を勢いよく振り払った。あっさりと腕が抜け、安堵したが女の顔を見て総毛立った。
それは明らかに憎悪。強い憎しみがこもる目の奥を覗いていると、佑月の中で、それはある確信へと変わっていった。
──この〝女〟はやっぱり……。
手首を擦 りながら、女を見据えていたが、直ぐに女は口元に笑みを乗せ、ふいと視線を外していった。佑月は無意識に溜めていた肺の空気を、吐き出した。
「どうなんだい、佑月」
答えない佑月に痺れを切らしたように、円城寺はこちらに向かいながら低く唸る。
「俺の交遊関係に、貴方が口を挟む権利なんてないはずですが?」
須藤のことがこの男の耳に入るのは容易いことだと分かってはいても、やはりこんな男に踏み入られるのは我慢ならない。
「私は心配してるのだよ。あの男がどういう人間か知らないわけではないだろう?」
「……」
話はする気がないと佑月が黙っていると、円城寺が苦笑する気配がした。だが、引き下がる気はないようだ。
「須藤 仁は人を人とも思わない。知ってるのか? あの男が今まで何人の人間を消してきたのかを」
佑月の目の前に立ち、耳元で囁くように言われ、瞬時に身を引いた。
「近寄らないでください」
「佑月、須藤という男は、飽きたら簡単に捨ててしまう。目障りならこんな風に簡単に捻り潰してしまうのだよ」
円城寺は傍らにあった花瓶から薔薇を一輪抜くと、花びらをぐしゃりと握り潰した。
開いた手のひらから、真っ赤な血が滴ったかのように、ひらひらとこぼれ落ちていく。
「佑月の前ではどんな顔をしてるのかは知らないが、騙されてはいけない。早く目を覚ましなさい」
「余計なお世話ですよ! 須藤がどういう人間かなんて、あんたに語って欲しくない」
確かに佑月は須藤の裏の顔をちゃんと見たことはない。見たいとも思わない。でもそれは目を背けたいのではなく、須藤自身が佑月に見せようとしないからだ。
前に一度〝こっちの世界には踏み込むな〟と佑月は言われたことがある。佑月に汚ない裏の世界に関わらせたくないからと。
でも佑月は須藤に何かあれば、踏み込む覚悟でいる。例え凄惨な光景を目の当たりにすることになっても、付いていきたいと思ってる。
甘い考えだとは自分でも思うが、あの男に惚れてしまったのは紛れもなく自分自身なのだから、今更引くことなど佑月の頭にはなかった。
それは堂々と人に語れるものではないが、この男にだけは言われたくないと、佑月は感情を剥き出しにしてしまった。そんな佑月に円城寺は大仰にため息を吐く。
「随分と毒されているようだね。こんなことなら、私のもとでしっかりと教育しておくべきだったね……」
至極残念そうな円城寺に、女も同意するように軽く頷く。
「家出なんかしても、一人では生きていけない。だから直ぐに帰ってくると踏んでいたが。まさかあんな小汚い小料理屋の世話になるとは」
嘆かわしいと呟く円城寺だったが、佑月はそのセリフに愕然としてしまった。
あの時は無我夢中で逃げだしていた時。佑月を保護してくれた【小雪】の夫妻、昌樹と香住のことが、円城寺に知れているとは思ってもみなかった。
今思えば、そんなことは〝円城寺〟には容易いことだった。何故ならそう言った情報を知り得る手段や、金はいくらでもあるからだ。
国内でも絶大なる権力を誇る、円城寺財閥の代表なのだから。
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