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「……俺、吐きそう」
やっと久也は松本を見た。
俯いた松本が口元を押さえているのを見、慌てて、近くに落ちていたレジ袋を取ろうとしたら。
「膝、ちょっど貸しでくださいね」
松本はそう言うや否や、素早く体を横にすると正座していた久也の膝に頭を乗っけた。
周囲はまたちらっと目にし、酔っているのだろうと思っただけで、何ら気にするでもなく話を続ける。
松本のグループは離脱者を気にかけるでもなく大いに盛り上がっていた。
「私の膝で吐かないでくれよ」
やっと久也は口を開いた。
困ったようにそっと微笑して真下に寝そべる松本を見下ろす。
肌寒い夜風が吹いて花弁が音もなく舞った。
咲き誇る桜を頭上にして、膝枕してくれる久也を見上げ、ほっとした松本はすっかり夢心地となる。
やばい、寝そう……。
「寝たら風邪を引くぞ」
松本の頭に落ちた花弁を一つ一つ甲斐甲斐しくとってやり、久也は、やんわりと注意する。
うん、でも、ちょっとぐらいなら大丈夫でしょ……?
瞼が下りがちな松本に久也はため息をつく。
背後に置いていた背広を広げると、ダウンジャケットの上にかけてやる。
周囲の喧騒がどこか遠い出来事のように感じられた。
久也と触れ合う場所は温かく、肌の上に時折届く指先から注がれる愛撫は心地よく……。
「寝ちゃったんですか?」
気づいた部下に問われて久也は微笑交じりに答える。
「そうみたいだ」
「なんか主任とその子、恋人同士みたいですよ」
女性社員がそう言って楽しそうに笑い合う。
久也は焦るでも誤魔化すでもなく、膝枕をされて眠る松本の肩まで隠れるよう、背広をかけ直してやった。
「子守唄でも歌ってあげたらどうだ」
上司の係長からそんなことを言われて、久也は、まだ肌寒いながらも桜の下という春めいた状況でぱっと思い浮かんだ歌を口ずさむ。
「春風そよふく……」
ずっと昔、学校の合唱コンクールで歌った曲だった。
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