127 / 130

オマケ後日談ーHappy birthday!1/4ー

「ただいま、久也さん」 七月の土曜の夜だった。 すでにシャワーを済ませて年下の恋人がやってくるのを自宅マンションで待っていた久也はちょっと目を見張らせた。 照明に照らされた外廊下に立ち、合鍵を持っているくせしてチャイムを鳴らしてドアが開かれるのを待っていた松本を改めて見つめ直し、開口した。 「おかえりなさい、千紘君、誕生日おめでとう」 スモークピンクの長袖プルオーバーパーカーを腕捲りし、チャコールグレーのアンクルパンツを履いた松本は嬉しそうに笑う。 「うわっ」 まだドアのロックをしていない段階で思い切り抱きしめられて久也は目を白黒させた。 「一ヶ月以上ぶりの久也さん。充電させてください」 「玄関でやめないかっ……君、お腹がぐうぐう鳴って……?」 「朝も昼もろくなものしか食べていなくて」 「またそれか」 「それにすごくいい匂いします」 「君がリクエストした通りの食事を用意した」 「わぁ」 雨上がり、蒸し暑い夜道を歩いてきた松本は、七分袖の白シャツにイージーパンツというこざっぱりした部屋着姿の久也からなかなか離れようとしない。 どこか狂おしげな熱気を引き摺る懐で久也はやんわり苦笑した。 「理想通りです、この山盛りナポリタン」 「イタリアンソーセージとガーリックソーセージ、焼きナス、後はピーマンにタマネギといった王道素材、調味料にはブラックペッパーと粉チーズ、だったな……千紘君のお腹の音がさっきから鳴り止まないな」 「浅ましくてスミマセン」 ちょっと広めの二人用テーブル中央にどーんと置かれた熱々の山盛りナポリタンを前にし、こどもみたいに目を輝かせている松本を席に着かせ、久也も向かい側に座った。 「付け合わせもサラダもいらないと言うから、本当にこれだけしか作らなかったぞ」 「好きなものだけとことん食べたくなるときってありません? 箸休めも必要ない、みたいな」 「せめて野菜はとらないと」 「ピーマンとタマネギ入ってますし? 誕生日とか特別な日くらい、いいでしょう? いただきまーす」 「やれやれ。いただきます」 奮発してもらったロング缶のビールとナポリタンを交互にせっせと味わう松本。 小皿に取り分けたナポリタンを静々と口に運びつつ「こどもみたいだ」と久也は失笑した。 「確かにものすごく昔の誕生日会のときはこんな風にひたすらがっついてました、飲み物はオレンジジュースでしたけど」 銀縁眼鏡のレンズ下で久也の双眸がおもむろに瞬き一つ、した。 「君の誕生日を二人で祝うのは初めてだな」 片付けられたリビングはテレビも消されていて静かだった。 時折、食器の触れ合う些細な音色や二人の会話が薄明るい部屋に小さく木霊した。 「そうですね、初めてです」 「去年は私の仕事の都合でスケジュールが合わなかった」 「一昨年も猛烈にドタバタしていた久也さんの都合で会えませんでした」 「……一昨年は、そうだな、うん」 「その前も久也さんが鬼のように忙しくて」 「その年の七月、私と君はまだ出会っていないぞ」 松本は口いっぱいにナポリタンを頬張って久也のツッコミを平然とスルーした。 彼と出会ってまだ三年にも満たない、か。 『俺、貴方の奥さんと不倫してるんだけど』 何度思い返してみても、突拍子もなくて、まるでマナーのなっていない、腹立たしい出会いだ。 おかげで年月がどれだけ経とうと記憶から一向に薄れる気配がない。 「いっぱい食べたのに、まだこんなにいっぱい残ってる」 「作り過ぎただろうか」 「いーえ。目一杯食べれる喜びを噛み締めていました」 フォークに何重にもスパゲティをぐるぐる巻きつけて次から次に頬張る松本の、大学時代と似たようなカジュアルな服装に久也は肩を竦めてみせる。 「あ。今、俺の何かしらに対して呆れたでしょう」 「そのラフな恰好だ」 「別に誰にも文句言われませんよ? 職場の人達みんなこんな感じです」 「一本目、もう飲んだのかい」 「飲んじゃいました」 「おかわりを持ってこよう」 空になった缶を手にし、久也はキッチンへ回った。 危うい迷走期もあったが何とか留年は免れ、経済学部現代ビジネス学科を卒業した松本は今年の春から社会人一年生になった。 長期インターンシップの経験を活かして広告制作会社へ正規雇用で採用され、現在、新人アシスタントとして扱き使われる日々にある。 「荷物持ちも頻繁にやらされるのでスーツなんか着てたらてきぱき動けないですよー」 冷蔵庫に補充済みの缶ビールを取り出そうとしていたら、キッチンカウンターの向こうから松本の声が聞こえてきた。 「家に帰ったら復習、昼休みも先輩アシスタントに聞き込みしたり」 「聞き込みか。刑事みたいだな」 「毎日毎日慌ただしくて、あっという間に過ぎ去った六月でした」 大盛りナポリタンをあっという間に半分以上食べた松本の手元に、よく冷えた缶ビールを下ろそうとしたら、両手で直に掴み取られた。 缶に付着した水滴で濡れる指と指が触れ合った。 「ただいま、おかえりって、早くガチで言い合えるようにしたいです」 アルコールによる酩酊感とはまた違う昂揚感が湧き上がり、久也は、自分を真っ直ぐ見上げてくる松本に照れ隠しに言うのだった。 「ケチャップで汚れた口元で言われても真剣味がないな」

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!