54 / 327

46

 柔らかい、モカブラウンの光が降り注ぐ。カーテン越しの、朝の光だ。時計をみてみればまだ朝早い。まだ眠れるなあと再び布団にもぐろうとしたけれど。 「……あ、」  しゅ、しゅ、とケトルの音が聞こえてきた。そっと布団から顔を出してリビングをみてみれば、智駿さんがいた。レースのような優しい光を浴びている、智駿さん。一人でいる姿にもきゅんとしてしまって、俺はそっと彼を見つめていた。昨夜は彼に抱かれたのだと思うと体が熱くなるけれど、そんな甘くもどかしい想いすらも愛おしい。もう一度触れて欲しいけれど、彼の貴重な朝の時間を邪魔はできないから、俺は声をあげないようにして黙って彼を見つめていた。  智駿さんがドリップをはじめると、珈琲のいい匂いが部屋のなかにふわりと広がる。白い湯気の中に霞む智駿さんがなんだか色っぽくて、俺は目をはなせない。  彼に恋をしているからだろうか。彼の仕草一つひとつが、ひどく魅力的に感じる。目にかかった前髪を指先で流す仕草も、ポットをゆらすその手も。彼の全てが、俺の目を釘付けにして、心を捕らえてしまう。  みとれていれば、智駿さんは珈琲をつくりおわっていた。出来上がった珈琲をマグカップに注いで、ゆっくりとイスに腰掛ける。 「……?」  珈琲に口をつける智駿さん。その姿もかっこよくて、どきっとしたけれど。俺が気になったのが、右手に握られたペン。珈琲を飲んで一息ついて、智駿さんはノートに何かを書いている。その表情は俺もびっくりするくらいに甘い。優しい眼差し、ほんの少しあげられた口角、瞬きの瞬間に瞳から弾けるゆるやかな幸福感。思わずノートに嫉妬してしまうようなその表情に、俺は息を呑んだ。 「……あれ、梓乃くん。起きていたの?」 「あっ、」  ちらり、俺の方を見た智駿さんと目があった。俺が起きていることに気付いた智駿さんはふっと笑って、ベッドに近付いてくる。 「おはよう」 「おっ、おはようございます……」  しゃがんで、俺の目線に合わせてくれて、頭を撫でてくれる。こんなことをされてどきどきしないわけがない。俺は顔の半分を布団で隠しながらなんとか智駿さんを見つめ返した。ノートを見つめていた目よりもずっと甘いその眼差しは、俺の体温をかあっとあげてゆく。 「あの……智駿さん、さっき、何を書いていたんですか?」 「あれ、見てたの? 新しいレシピかな」 「毎朝あんな風に書いているんです?」  智駿さんがベッドの端で頬杖えをつきながら、俺の髪の毛を指先でもてあそぶ。言葉に出されなくても「愛おしい」と言われているようで、もうおかしくなりそうだった。  智駿さんは俺の問に少し照れたように頬を染める。はにかんだように笑って、そんな恥ずかしそうな表情に俺の心臓は爆発寸前。 「いいことがあった日は、とびきり素敵なレシピを思いつくんだ。昨日の幸せがまだいっぱい残っているうちに、書き留めておきたくて」  そっと俺の唇にキスをする智駿さんは、本当に幸せそうで。本気で恋をしたことがないと言っていた智駿さんがここまで幸せそうな顔をするから、思わず泣きそうになってしまった。  最後にくしゃくしゃと俺の頭を撫でて、ベッドから離れていった智駿さん。「いってきます」という言葉に俺は慌ててベッドから飛び出して、玄関に一緒に向かう。 「いってらっしゃい、智駿さん」  花のように笑った智駿さんが、もう一度俺にキスをする。思わずこぼれた笑顔に、俺も幸せだなあと実感して。玄関の扉が閉まるそのときまで、胸の中のときめきを抱きながら手を振っていた。 「……俺も準備しなきゃ」  智駿さんが去った部屋は、ちょっとだけ広く感じる。ワンルームの部屋だし、広すぎるなんてことはないけれど。この部屋では智駿さんと一緒にいることが当たり前だったから、そんな錯覚を覚えているのだ。  智駿さんの残り香を感じながら、ゆっくりと歩く。テーブルの端に置かれたノートが、ちょっと気になる。  ――みても、いいかな。  智駿さんのレシピには、智駿さんの幸せがつまっている。それを知ったなら、みてみたいと思うのは仕方のないこと。  ページを開けば、いろんなケーキのレシピが詰まっていた。おしゃれなスケッチみたいなものを想像していたけれど、ノートに描かれていたのは男性らしい文字とさっとラフにかかれたケーキの図。人に見せるためにかかれたものではないと一目でわかったけれど、俺は引き込まれるようにそのノートを読んでいた。 「あ、これ」  最後のページあったのは、きっとさっき書いていたもの。俺と結ばれたときのことを想って描いたという、新しいケーキ。  たまらなくなって、俺は笑う。そのケーキのレシピをみても、専門的な言葉が多くてわからない部分が多い。けれど、それでも伝わってくるのが、このレシピを描いているとき、智駿さんは幸せだったんだなあということ。  このケーキがブランシュネージュに並んで、嬉しそうに笑っている智駿さんを想像して。俺は、泣きそうなくらいに幸せな気分になった。 Tarte au citron~甘く蕩ける恋のはじまり~ fin

ともだちにシェアしよう!