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「……っ、」  妙な、蒸し暑さに目を覚ます。部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から溢れてくるのは紅い光。外は、夕焼けに燃えているらしい。  全身が、汗でびっしょりだった。目玉だけを動かして自分の周囲を見渡せば、ベッドサイドには飲みかけのペットボトル、ゴミ箱に溢れかえるティッシュ、それから転がる薬の瓶。……風邪を、ひいたんだった。風邪をひいて、今日は学校を休んだ。学校を休んで一日寝ていて……それで見た夢が、今の夢。梓乃が俺を求める夢。  なんだって、そんな夢をみているんだ。罪悪感しか覚えない。梓乃が俺にあんな顔をみせること、これから絶対にないというのに。 「……?」  目覚めが悪い、体が怠い。動く気力もまた寝ることすらも億劫で、鬱屈としてくる。部屋の電気をつける体力もなくて、部屋の中は夕焼けの、炎のような紅い光に照らされる。意識が朦朧とするなかで、音を聞いたから俺はまた自分が夢の中にいるのかと思った。  耳に入り込み、ぼんやりと頭の中で音は木霊する。ドアチャイムの音だ。誰かがやってきた。宅配便は頼んでいないから……セールスか誰かだろう。居留守してしまおう、さっさと帰ってくれ――そう思って目を閉じれば、「声」が聞こえる。 「――彰人……寝てる?」 「……!」  ……梓乃だ。訪ねてきたのは、梓乃のようだ。  俺は無意識に布団を放り投げてベッドから抜けだしていた。さっきまで動きたくないと思っていたのが嘘のように。梓乃が帰ってしまう前に玄関にたどり着こうと慌てたからか、机の角に足をぶつけて強烈な痛みに襲われたが気にせず早足で向かっていく。 「……梓乃、」 「あ、彰人……風邪、大丈夫? 顔色……酷いけど……」 「へ……へーきへーき! なあに、梓乃ちゃん、お見舞いにきてくれた?」 「うん。っていうか、昨日雨に濡れたせいだよね、彰人が風邪ひいたの。ごめんね、本当に。……あがって大丈夫?」 「違う違う、昨日腹出して寝たからだと思うんだよねー! いや、あがんないほうがいいよ、風邪伝染るから」 「……ごはん。どうせ食べてないでしょ。さっと作って帰るから」  扉を開けた先には、コンビニの袋を持った梓乃。袋の中にはアイスとかスポーツドリンクとか、風邪のときに欲しくなるものが入っている。ノスタルジックな紅の光が立ち込める薄暗い部屋、どんよりと淀んだ空気――それらにあてられて鬱々としていた俺の心。梓乃の顔を見ただけで、すっと青空が広がって風が吹き抜けたように、心の霧は晴れてゆく。  ……なに、俺ってこんなに梓乃のこと、好きだった?  中学のときだって、高校のときだって。友達という存在は俺にとって退屈な時間を埋めるもの、そんな位置づけだった。それなりに好きではあったが、こんなふうに姿を見ただけで嬉しくなる、なんてことはなかった。 「カーテン閉めてたんだ。もしかして寝てた? 起こしちゃったならごめんね?」 「……いや、全然!」 「せっかくだからさ、見てみてよ、今日の夕日――綺麗だよ」 ――シャ、とカーテンが開かれる。  俺は、適当な人生を歩んでいきたいと思っていた。疲れなくて、楽な人生。それなりに人付き合いをして、それなりに笑って楽しんで。面倒事は徹底的に避けて行きたいと思っていたから、誰かを「好き」になることを避けていた。一人の人に入れ込まないようにしていた。  だから――こうして、真っ赤な夕日に照らされて笑った梓乃を……綺麗だ、なんて。そう思ったのは、俺らしくないことだ。 「ああ……綺麗だね」  とくん、と鼓動が俺のなかに響く。ああ、なんだ、俺の心臓は死んでいたかと思っていたけれど、ちゃんと生きていた。 「彰人? う、わ」  夕陽を受けた梓乃に、たまらず抱きついた。抱きしめれば感じ取れる、華奢な身体となんとなく柔らかい肌。そして、虫を誘い込む花の如くの、いい匂い。俺の腕のなかに閉じ込めると、確かな喜びが心のなかに湧き上がる。 「……え、えっと、彰人、」 「あー、心細かったー! 風邪引くとさ、やっぱ人間弱っちゃうね! 梓乃、来てくれてありがとー!」 「う、うん」  梓乃が、俺を蘇らせた。こんな風に、一人の人間を欲しいなんて思ってしまう、人間らしさを呼び戻した。  友人? それとも違う?  それはどうでもいい。俺は今、抱きしめたこの人を、たまらなく愛おしいと、そう思っていた。

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